詩と文学
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1917年に第一詩集『轉身の頌』を家蔵版として刊行、以後『黒衣聖母』『黄眠帖』『咒文』を出版。1922年から『中央公論』で明治、大正の詩史について掲載を始める。1920年に天佑社『ワイルド全集』第4巻として「ワイルド詩集」を翻訳。また「朝日新聞」に寄稿を始める。 1924年、再従妹の中島添子と結婚。大正末期から「大正デモクラシイ詩壇」からの批判に嫌気がさして、ほとんど詩の執筆をしなくなり(『文学詩歌談義』「序」)、学究的な仕事と、欧米の詩の翻訳、オカルティズム研究、随筆執筆などを主にするようになり、ヨーロッパ象徴主義の背景として、ロマン主義やデモノロジーにも博識ぶりを示した。1924年から1927年まで、石川道雄、堀口大學、西条八十、城左門らと雑誌「東邦藝術」(3号から「奢灞都(サバト)」)を発行、フランス、イタリア、イギリス、アイルランドの文学の紹介、翻訳などを行い、ここでの企画「奢灞都南柯叢書第一期刊行目録」とされた53冊のうち、E.T.A.ホフマン『黄金寶壷』(石川道雄訳)、E.A.ポー『タル博士とファザア教授の治療法』(龍膽寺旻訳)の2冊が刊行された。 1927年「楚囚文學考」ではいち早くゴシック・ロマンスを日本に紹介するとともに、日本の古典怪奇、幻想文学との対比を行い、1951年「徳川恠異談の系譜」も著す。1928年に雑誌『パンテオン』を監修、発刊し、翌年まで10号を発行。若年から病弱で肋間神経症、喘息を持病とし、1930年から7年間療養生活を送り、42歳からは心臓急搏症で、1933-34年には鵠沼海岸に転地。1931年早稲田大学文学部教授に就任。1932年雑誌『戯苑』監修創刊、翌年2号を出して廃刊。1934年に阿佐ヶ谷に移る。1939年にジョン・キーツのオード創作心理過程と漢詩の比較論「美の司祭 - John KeatsのOdeに関する研究」で早稲田大学より文学博士号を授与。
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詩と文学
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陸游は詩作について、江西詩派に属する曾幾に師事していたので、若い頃の詩風は典故を多用し、修辞を凝らしたものであった。蜀地方での赴任時代には、自然の中で暮らすようになり、また一向に進展しない対金国情勢もあって、単なる修辞主義を離れた気宇壮大かつ憂憤の情を込めた饒舌な詩風となった。そして本格的に故郷で生活するようになると、愛国・憂国の志を詠じることを忘れることはなかったが、繊細な感覚によって生活の中の機微を題材にした詩を作り、多くの詩を残した。
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