複々線化
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1965年6月には京都 - 草津間複々線化工事が着工され、1970年3月9日に完成。これにより東山トンネルでは現在の下り外側線が掘削され、新逢坂山トンネルでは現在の上り外側線が新たに掘削された。このうち、新逢坂山トンネルの内側線トンネルと外側線トンネルは大津口付近で合流している。つまり山科口側からは4つ入り口があるが大津口側は3つしかないことになる。
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複々線化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/30 05:55 UTC 版)
この高架化事業とは別に、三鷹駅 - 立川駅では複々線化が計画中である。複々線のうち急行線は高規格な地下路線となる予定で、実現した場合には中野駅 - 立川駅間を運行している快速の停車駅も変更を迫られると見られる。建設費は国土交通省の試算で約3,600億円と見積もられている。 三鷹駅 - 立川駅間の複々線化は1970年代にはすでに計画されており、そのさなかに開業した西国分寺駅のホーム構造を見れば明らかなように用地は確保されていた。しかし、複々線化工事の着工に手間取っているうちに法改正がなされ、高架化する際には脇に側道を整備することが義務付けられたため、複々線の用地を環境側道に転用することになった。このため、仮に複々線化が実現したとしても「緩行線は高架・快速線は地下」という構造になる見込みである。ただし、国分寺駅西側から国立駅東側までは掘割であり、既存線に並行して複々線を設置する用地もある。 この複々線を利用する特急列車などの優等列車が三鷹駅から大深度地下を利用した高速地下鉄道によって新宿駅を経由し東京駅で京葉線につなげるという構想もある。ただし、そのための設備投資費用は約4,500億円とJR東日本だけが負うにはあまりにも巨額のため、国や自治体の道路建設や整備新幹線並みの援助が必要だろうといわれている。 政治・行政面では、中央線三鷹駅 - 立川駅間複々線化の都市計画が決定している。東京都は整備効果が高いが、収支採算性など事業スキームに課題があるとしており、関係機関との調整状況を踏まえて新しい整備の仕組みづくりを検討するとしている。多摩地域の市町村の大半は「三鷹・立川間立体化複々線促進協議会」に加入、関係省庁に対して要望を行っている。この協議会には、中央線や乗り入れ先の青梅線・五日市線・八高線沿線だけでなく、並行する京王線、西武新宿線・拝島線等の沿線自治体も加入している。また山梨県や長野県も「中央東線高速化促進広域期成同盟会」を結成し、同様の要望を行っている。政治家では萩生田光一が複々線化実現を自身の政策の一つとして掲げている。 2025年度に完了する予定であったものの、利用客の需要動向・財源確保方策が確定していないことから、工事の着手には至っていない。東京都は、2021年3月付で計画変更届の内容を発表した。それによると、2028年度までに完了する予定となっている。
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複々線化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 04:32 UTC 版)
「東急目黒線#大規模改良工事」も参照 東横線の輸送需要増大に対応する抜本的対策の一つとして「東横線沿線から都心方面に向かう第2ルートの確保」が検討され、その結果として行われたのが「東横線・多摩川園駅 - 日吉駅間4.8kmの複々線化」と「旧目蒲線・目黒駅 - 多摩川園駅間の大規模改良」の実施による目蒲線経由での地下鉄への直通運転である。この工事の完成により、目蒲線改め目黒線経由での南北線・都営三田線への直通運転が行われている。
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複々線化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/09 10:07 UTC 版)
京阪神間では、複々線(線路4線)に増強する工事が1916年(大正5年)から順次進められてきた。大阪 - 塚本間は先に工事が進み使用開始されたことから、茨木 - 大阪間についても工事に着手することになった。1937年(昭和12年)11月から下部構造の工事が開始された。 新設される橋梁は、従来の橋梁に対して上流側に、中心線間隔で18メートル離れた位置に架設された。径間割は、15.91メートル1連、27.69メートル1連、32.69メートル20連、36.875メートル1連である。橋脚は鉄筋コンクリート製の井筒を用いて建設された。上部構造は、下淀川橋梁の下り線と同様に、トラスではなくプレートガーダーが選択された。これは工期の短縮ができること、工費が節約できること、災害時の復旧が容易であることなどが理由である。桁の設計が1930年(昭和5年)に実施されており、この時に従来のフィート・インチ単位からメートル単位に移行され、また活荷重の計算も従来のポンド単位のクーパー荷重から1928年(昭和3年)制定のKS荷重に移行した。上淀川橋梁で採用された活荷重はKS-18で、従来のクーパー荷重にするとクーパーE40相当である。 1939年(昭和14年)には桁の架設が完了した。しかし、約80パーセントの工程を完了した1943年(昭和18年)になり、戦争のために残工事が中止となってしまった。第二次世界大戦後、1952年(昭和27年)10月に工事が再開され、大阪から宮原操車場までの区間が1955年(昭和30年)1月に使用開始され、増設された上淀川橋梁も供用開始された。1956年(昭和31年)9月に茨木 - 大阪間の全区間の複々線での供用が開始された。
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