じゅ‐だい【▽入内】
にゅう‐ない〔ニフ‐〕【入内】
入内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 15:41 UTC 版)
久安6年(1150年)正月4日、近衛天皇は摂関家の本邸・東三条殿で元服の式を挙げ、藤原忠通が加冠役、頼長が理髪役を務めた。同月10日に多子は入内、19日に女御となる。近衛天皇は12歳、多子は11歳だった。しかし、2月になると藤原伊通の娘・呈子(20歳)が入内するという風聞が立った。驚いた頼長はただちに法皇に多子の立后を求めるが、明確な返答は得られなかった。忠通は呈子を養女に迎えると、法皇に「摂関以外の者の娘は立后できない」と奏上した。忠通は頼長を養子にしていたが、実子・基実が生まれたことで摂関の地位を自らの子孫に継承させようと考えていた。頼長は宇治にいる実父・忠実に助けを求め、上洛した忠実は鳥羽法皇に対して、藤原道長の娘・上東門院や非執政者の娘(藤原師輔の娘・安子、藤原師実の養女・賢子)が立后した例を示し、頼長には近衛天皇の母・美福門院に書を送って嘆願することを命じた。頼長は諸大夫出身の美福門院を日頃から見下していたので躊躇するが、忠実は「已に国母たり」と説得した(『台記』)。 呈子が従三位に叙されて入内が間近に迫ると、頼長は「もし呈子が多子より先に立后したら自分は遁世する」と言い出し、忠実も粘り強く法皇に立后を奏請したことで、3月14日に多子は皇后となった。皇后宮大夫には実父・公能、権大夫には頼長の子・藤原兼長が就任した。多子の後を追うように、4月21日に呈子も入内して、6月22日に立后、中宮となる。この事件により、忠通と頼長の関係は修復不可能となった。美福門院は呈子の早期出産を期待していた。仁平2年(1152年)に呈子は懐妊の兆候を見せるが、周囲の期待に促された想像妊娠であったらしく空騒ぎに終わってしまう。
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