入内政策と晩年
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『玉葉』によると、建久2年(1191年)、頼朝が娘を後鳥羽天皇に入内させようとしているという噂が九条兼実の耳にも入っている。だが、翌建久3年(1192年)の後白河法皇の死とそれに伴う兼実の政権獲得が原因か、1度は沙汰止みになっている。 建久6年(1195年)2月、頼朝は東大寺再建供養に出席するため、政子と頼家・大姫ら子女達を伴って再び上洛した。長女・大姫を後鳥羽天皇の妃にすべく、娘・任子を入内させている兼実ではなく源通親や丹後局と接触し、大量の贈り物や莫大な荘園の安堵などを行って朝廷工作を図った。建久7年(1196年)11月、兼実は一族と共に失脚、頼朝はこれを黙認したとされる(建久七年の政変)。しかし建久8年(1197年)7月、大姫は病死。建久9年(1198年)正月、頼朝の反対を無視して後鳥羽天皇は通親の養女が生んだ土御門天皇に譲位して上皇となり院政を開始。通親は天皇の外戚として権勢を強めた。頼朝は朝廷における代弁者であった一条能保・高能父子が相次いで病死したこともあり、遅ればせながら危機感を抱いて兼実に書状を送り再度の提携を申し入れたといわれる。 だが、それらは兼実の日記『玉葉』やその弟慈円の『愚管抄』にのみ見られるものであり、実際には通親は頼朝や頼家に最大限の配慮をしており、反幕的公卿の指摘は当たらないとの見解もある。政権基盤の脆弱な通親が頼朝と敵対したらひとたまりもなく、また御家人統制に王朝権威を利用し始めた頼朝にとって朝廷統制は不可欠であって、その最も直截的な方策こそ娘の入内と外孫の即位であったともされる。実際、頼朝は引き続き次女・三幡姫の入内を目指し、三幡は通親の主導する朝廷から女御の宣旨を受けている。 しかし建久9年(1198年)12月27日、頼朝は相模川で催された橋供養からの帰路で体調を崩す。原因は落馬と言われるが定かではない。建久10年(1199年)1月11日に出家。1月13日に死去した。享年52(満51歳没)。
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