入内政策と晩年とは? わかりやすく解説

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入内政策と晩年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:52 UTC 版)

源頼朝」の記事における「入内政策と晩年」の解説

玉葉』によると、建久2年1191年)、頼朝が娘を後鳥羽天皇入内させようとしているという噂が九条兼実の耳にも入っている。だが、翌建久3年1192年)の後白河法皇の死とそれに伴う兼実の政権獲得原因か、1度沙汰止みになっている建久6年1195年2月頼朝東大寺再建供養出席するため、政子頼家大姫子女達を伴って再び上洛した。長女大姫後鳥羽天皇の妃にすべく、娘・任子入内させている兼実ではなく源通親丹後局接触し大量贈り物莫大な荘園安堵などを行って朝廷工作図った建久7年1196年11月、兼実は一族と共に失脚頼朝はこれを黙認したとされる建久七年の政変)。しかし建久8年1197年7月大姫病死建久9年1198年正月頼朝反対無視して後鳥羽天皇は通親の養女生んだ土御門天皇譲位し上皇となり院政開始。通親は天皇外戚として権勢強めた頼朝朝廷における代弁者であった一条能保・高能父子相次いで病死したこともあり、遅ればせながら危機感抱いて兼実に書状送り再度提携申し入れたといわれる。 だが、それらは兼実の日記玉葉』やその弟慈円『愚管抄』にのみ見られるものであり、実際には通親は頼朝頼家最大限配慮をしており、反幕的公卿指摘当たらないとの見解もある。政権基盤脆弱な通親が頼朝敵対したひとたまりもなく、また御家人統制王朝権威利用し始めた頼朝にとって朝廷統制不可欠であって、その最も直截的方策こそ娘の入内外孫即位であったともされる実際頼朝引き続き次女三幡姫入内目指し三幡は通親の主導する朝廷から女御宣旨受けている。 しかし建久9年1198年12月27日頼朝相模川催され橋供養からの帰路体調を崩す原因落馬と言われる定かではない建久10年1199年1月11日出家1月13日死去した享年52(満51歳没)。

※この「入内政策と晩年」の解説は、「源頼朝」の解説の一部です。
「入内政策と晩年」を含む「源頼朝」の記事については、「源頼朝」の概要を参照ください。

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