芦生奥山とは? わかりやすく解説

芦生奥山(第1期)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 04:22 UTC 版)

京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林」の記事における「芦生奥山(第1期)」の解説

研究エリア含めた北桑田郡および隣接する葛野愛宕両郡北部山林地域は、平安京遷都以降内裏造営をはじめとした建築用確保のための杣山として指定されるなど、旺盛な京都材木需要支えられ伐採更新サイクル繰り返されていた。もっとも、当研究エリア由良川源流最深部であり、大消費地である京都市内搬出するには筏流し由良川下っても、途中で一度峠越えをして大堰川桂川水系搬出して京都市内輸送する必要があった。このような大規模需要のほかにも由良川流域福知山綾部、あるいは山を越えた小浜といった城下町における建築用としての需要もあったほか、地元用材木工品材料木炭製造に関する需要もあった。こうしたことから、古くから材木伐採炭焼き従事するために、山中には源流域谷筋中心に後の知井村構成する九つの字から移住した山番住みついていたほか、用材求めて山中移動する木地師住みついており、木椀や盆などの木材加工品を製造していた。こうした山林利用の他にも、佐々里峠から灰野に出て一度由良川源流下り現在の事務所付近から倉谷通って権蔵坂で若狭抜け街道もあり、京都小浜を結ぶサブルートとしての役割果たしていた。一方現在の由良川最上流部である上谷下谷合流点である中山付近を境として、東部長治谷から上谷にかけた一帯古くから朽木村西部の針畑郷とのつながり強く用材地蔵峠越えて朽木方面搬出されていた。また、中山から長治谷、野田畑にかけては大きな木地師の集落があり、下流の知井とはほとんど繋がりがないかわりに、針畑郷や若狭知三村繋がっていた。現在でも野田畑の住居跡に、住民植えたスモモの木が残っている。 江戸時代には現在の研究エリアは、明治以降旧知井村構成する北、南、中、下、江和、田歌河内谷の各篠山藩領に、現在の事務所周辺に当たる芦生をはじめ佐々里、白石知見四ヶ村園部藩となったのとは異なり天領として京都代官所が支配し当初は知井の他地域山林同様知井九ヶ惣山として一括して扱われていたが、他地域山林の山検地が進むにつれて、知井九ヶ村の人々利用している山は芦生奥山、針畑郷の人々利用している山はおろし山として、それぞれ独立した扱いを受けるようになっていった。その境界付近にある中山社は「うつしの宮」と呼ばれており、周辺は「ちまた山」として両入会山であったこのように古くから多く人々入山居住していた地域であるが、江戸時代後期には大半山番下山明治時代初めに佐々里峠入り口である灰野に残るのみとなった木地師山中移動しながら構えていたが、別の山へ移住するものもあれば、時には飢饉一村全滅という悲惨な事態迎えたもあった。こちらも明治初期には若狭から野田畑に3戸が移住して杓子などの木製品製造していた。ただ、これらの人々明治中期までは知井村人々交流がなく、由良川上流から杓子流れてきたことに驚いた灰野の村人戸長役場連絡探検隊組織してこれらの人々「発見」し、1889年10月戸籍作成したこうした経過当時新聞に「現代桃源郷」や「明治村」として報道されたという話が残っている。 明治以降はこの地域全体知井村となり、芦生奥山やおろし山などと漠然と呼ばれていた当研究エリアは、地租改正によって山林土地台帳整備された。しかしながら従来の九ヶ惣山が九ヶ共有林呼び方変わったにしてもこの地域における山林利用の形態大きな変化はなく、従来同様知井や針畑から入山して、製炭中心に生活用品原材料となる雑木伐採して生計立てていた。こうした山林利用の形態明治中期以降から徐々に変化していく。雑木利用からヒノキといった用材植林し山林経営を図るといった考え方入ってくるようになり、面積広大な研究エリア事業対象とする思惑が働くようになった財政基盤脆弱な知井村では広大な山林対象とした事業の実施が困難であったことから、銀行融資受けて資金確保しようとしたものの、木材搬出するにしても交通の便をはじめとした地理的条件あまりにも悪いことから、融資の話もいつしか立ち消えとなったその後もこの地域における山林経営が村政運営課題として採り上げられたが、財政面有力者思惑などから手付かずのまま推移していった。また、野田畑に住んでいた人々明治末期までに朽木村名田庄村へと下山し無住の地となった1910年8月25日現在の山陰本線園部駅 - 綾部駅間が開通同日和知駅開設されると、伐採した材木筏流し由良川和知まで流し和知から列車発送することで輸送コスト削減大量搬出可能になった。同時に鉄道欠かせない枕木用材として材の需要急増樹木豊かな由良川源流域から材を伐採枕木加工して散流(バラで流すこと)するか筏に組んで由良川和知まで流すことが次第増えていった。このような状況に目をつけた三井本社が、大正初期から中期にかけて、芦生奥山の林産資源確保のために知井村予備交渉持ったという話が残っている。 当研究をはじめとしたこの地域山林所有形態は、明治以降も、他地域のように大規模な山林地主所有するものでも、土佐木曽のように江戸時代は藩有だったものを皇室財産として宮内省帝室林野局移管したものでも、農商務省山林局監督する国有林でもなく、部落共有林として地域住民共有財産として扱われていた。こうした共有林は、1889年市町村制施行当初から、内務省では財政基盤確立各市町村体力強化のため、部落をはじめとした部落有財産を各市町村財産統合することを推進していた。財産統合各市町村内において有力者利害関係集落間の強弱関係が錯綜することから当初はなかなか進展しなかったが、日露戦争終了後各市町村財政窮乏期に明治後期から大正昭和戦前期にかけて強力に進められるようになった知井村では1902年学校基本財産として学校林設定されていたが、明治末期から部落統一向けた動き多く議論重ねながら進められていった。 この時期京都帝国大学においてはそれまで分科大学制改め学部制を採用することとなり、1923年農学部設置することが決定されたが、従来から存在する京都帝大演習林は、台湾朝鮮半島樺太といった当時日本海外領土であった地域にしかなく、国内演習林設置することが求められていた。こうしたことから京都府下や滋賀県内を中心に適地調査進められ、芦生奥山も候補地一つであった調査過程で芦生奥山は演習林最適地との評価つけられたほか、行政側においても、広大かつ地理的条件の悪い芦生奥山の管理は、部落村有財産への統一後には知井村の手に余ることが予想されたことから、京都府では京都帝大の持つステータス考慮して北桑田郡長の陣頭指揮の下、芦生奥山への演習林誘致向けた斡旋進めていった。ここに大学側行政側の動き合致したことから芦生奥山が演習林として決定され1921年4月4日大学側土地所有者(代表:知井村長)との間で99年間の地上権設定契約締結され、ここに京都帝国大学芦生演習林誕生した

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