芦生奥山(第1期)
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「京都大学フィールド科学教育研究センター森林ステーション芦生研究林」の記事における「芦生奥山(第1期)」の解説
当研究林のエリアも含めた旧北桑田郡および隣接する旧葛野・愛宕両郡北部の山林地域は、平安京遷都以降内裏の造営をはじめとした建築用材確保のための杣山として指定されるなど、旺盛な京都の材木需要に支えられて伐採〜更新のサイクルが繰り返されていた。もっとも、当研究林のエリアは由良川源流の最深部であり、大消費地である京都市内に搬出するには筏流しで由良川を下っても、途中で一度峠越えをして大堰川(桂川)水系に搬出して京都市内に輸送する必要があった。このような大規模需要のほかにも由良川流域の福知山、綾部、あるいは山を越えた小浜といった城下町における建築用材としての需要もあったほか、地元の用材や木工品の材料、木炭製造に関する需要もあった。こうしたことから、古くから材木の伐採や炭焼きに従事するために、山中には源流域の谷筋を中心に後の知井村を構成する九つの字から移住した山番が住みついていたほか、用材を求めて山中を移動する木地師が住みついており、木椀や盆などの木材加工品を製造していた。こうした山林利用の他にも、佐々里峠から灰野に出て、一度由良川源流を下り、現在の事務所付近から櫃倉谷を通って権蔵坂で若狭に抜ける街道もあり、京都と小浜を結ぶサブルートとしての役割を果たしていた。一方、現在の由良川最上流部である上谷と下谷の合流点である中山付近を境として、東部の長治谷から上谷にかけた一帯は古くから朽木村西部の針畑郷とのつながりが強く、用材も地蔵峠を越えて朽木方面に搬出されていた。また、中山から長治谷、野田畑にかけては大きな木地師の集落があり、下流の知井とはほとんど繋がりがないかわりに、針畑郷や若狭知三村と繋がっていた。現在でも野田畑の住居跡に、住民が植えた松やスモモの木が残っている。 江戸時代には現在の当研究林のエリアは、明治以降旧知井村を構成する北、南、中、下、江和、田歌、河内谷の各村が篠山藩領に、現在の事務所周辺に当たる芦生村をはじめ佐々里、白石、知見の四ヶ村が園部藩領となったのとは異なり、天領として京都代官所が支配し、当初は知井の他地域の山林同様知井九ヶ村惣山として一括して扱われていたが、他地域の山林の山検地が進むにつれて、知井九ヶ村の人々が利用している山は芦生奥山、針畑郷の人々が利用している山はおろし山として、それぞれ独立した扱いを受けるようになっていった。その境界付近にある中山社は「うつしの宮」と呼ばれており、周辺は「ちまた山」として両村の入会山であった。このように、古くから多くの人々が入山、居住していた地域であるが、江戸時代後期には大半の山番が下山、明治時代の初めには佐々里峠の入り口である灰野に残るのみとなった。木地師は山中を移動しながら村を構えていたが、別の山へ移住するものもあれば、時には飢饉で一村全滅という悲惨な事態を迎えた村もあった。こちらも明治初期には若狭から野田畑に3戸が移住して、杓子などの木製品を製造していた。ただ、これらの人々も明治中期までは知井村の人々と交流がなく、由良川上流から杓子が流れてきたことに驚いた灰野の村人が戸長役場に連絡、探検隊を組織してこれらの人々を「発見」し、1889年10月に戸籍を作成した。こうした経過が当時の新聞に「現代の桃源郷」や「明治村」として報道されたという話が残っている。 明治以降はこの地域全体が知井村となり、芦生奥山やおろし山などと漠然と呼ばれていた当研究林のエリアは、地租改正によって山林土地台帳も整備された。しかしながら、従来の九ヶ村惣山が九ヶ村共有林と呼び方が変わったにしてもこの地域における山林利用の形態に大きな変化はなく、従来同様知井や針畑から入山して、製炭を中心に、生活用品の原材料となる雑木を伐採して生計を立てていた。こうした山林利用の形態も明治中期以降から徐々に変化していく。雑木の利用から杉やヒノキといった用材を植林して山林経営を図るといった考え方が入ってくるようになり、面積広大な当研究林のエリアを事業の対象とする思惑が働くようになった。財政基盤の脆弱な知井村では広大な山林を対象とした事業の実施が困難であったことから、銀行の融資を受けて資金を確保しようとしたものの、木材を搬出するにしても交通の便をはじめとした地理的条件があまりにも悪いことから、融資の話もいつしか立ち消えとなった。その後もこの地域における山林経営が村政運営の課題として採り上げられたが、財政面や有力者の思惑などから手付かずのまま推移していった。また、野田畑に住んでいた人々も明治末期までに朽木村や名田庄村へと下山し、無住の地となった。 1910年8月25日に現在の山陰本線の園部駅 - 綾部駅間が開通、同日に和知駅が開設されると、伐採した材木を筏流しで由良川を和知まで流し、和知から列車で発送することで輸送コストの削減と大量搬出が可能になった。同時に、鉄道に欠かせない枕木の用材として栗材の需要が急増、樹木の豊かな由良川源流域から栗材を伐採、枕木に加工して散流(バラで流すこと)するか筏に組んで由良川を和知まで流すことが次第に増えていった。このような状況に目をつけた三井本社が、大正初期から中期にかけて、芦生奥山の林産資源確保のために知井村と予備交渉を持ったという話が残っている。 当研究林をはじめとしたこの地域の山林の所有形態は、明治以降も、他地域のように大規模な山林地主が所有するものでも、土佐や木曽のように江戸時代は藩有林だったものを皇室財産として宮内省帝室林野局に移管したものでも、農商務省山林局が監督する国有林でもなく、部落共有林として地域住民の共有財産として扱われていた。こうした共有林は、1889年の市町村制施行当初から、内務省では財政基盤確立と各市町村の体力強化のため、部落有林をはじめとした部落有財産を各市町村財産に統合することを推進していた。財産統合は各市町村内において有力者の利害関係や集落間の強弱関係が錯綜することから当初はなかなか進展しなかったが、日露戦争終了後の各市町村の財政窮乏を期に、明治後期から大正、昭和戦前期にかけて強力に進められるようになった。知井村では1902年に学校基本財産として学校林が設定されていたが、明治末期から部落有林の統一に向けた動きが多くの議論を重ねながら進められていった。 この時期、京都帝国大学においてはそれまでの分科大学制を改めて学部制を採用することとなり、1923年に農学部を設置することが決定されたが、従来から存在する京都帝大の演習林は、台湾・朝鮮半島・樺太といった当時日本の海外領土であった地域にしかなく、国内で演習林を設置することが求められていた。こうしたことから京都府下や滋賀県内を中心に適地の調査が進められ、芦生奥山も候補地の一つであった。調査の過程で芦生奥山は演習林最適地との評価をつけられたほか、行政側においても、広大かつ地理的条件の悪い芦生奥山の管理は、部落有林の村有財産への統一後には知井村の手に余ることが予想されたことから、京都府では京都帝大の持つステータスを考慮して、北桑田郡長の陣頭指揮の下、芦生奥山への演習林誘致に向けた斡旋を進めていった。ここに大学側、行政側の動きが合致したことから芦生奥山が演習林として決定され、1921年4月4日に大学側と土地所有者(代表:知井村長)との間で99年間の地上権設定契約が締結され、ここに京都帝国大学芦生演習林が誕生した。
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