行政側の動き
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 03:44 UTC 版)
「世界のウチナーンチュ大会」の記事における「行政側の動き」の解説
沖縄戦からアメリカ合衆国による沖縄統治、そして1972年に本土復帰に至るが、本土復帰後も基地問題や経済・産業の行き詰まりなどに直面した。そのなかで、沖縄のアイデンティティを探る流れが起きた。 一方で、すでに述べた「移民県としての沖縄」という側面の他に、歴史をひも解けば、琉球王国が交易国として成り立っていたことがあり、首里城正殿にかけられた「万国津梁の鐘」が、まさにその象徴であった。 琉球新報の連載は、当時、沖縄県知事であった西銘順治の関心を引いた。西銘は、1990年に「世界ウチナーンチュ・ネットワーク構想」を打ち出した。この構想は、海外の沖縄県出身者たちとの関係構築するための交流イベントが検討されることになり、1990年に第1回世界のウチナーンチュ大会が開催されることになった。
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