経営再建と全線開業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/01 13:53 UTC 版)
こうして両端の区間で営業が行われるようになった。しかし当初資本金140万円で発足したが、両端の区間をまだ建設中であった明治30年度下半期の時点で支出済みの額と未払い金を合計すると110万7708円78銭7厘に達しており、負債は49万4851円になっていた。工事予算は55万円を追加して総額195万円と臨時株主総会に報告され、借入で賄うか増資をするかが問題となった。中間区間の工事は中断し、役員も相次ぎ交代し体制は安定しなかった。経営再建のために、1899年(明治32年)3月26日に日本生命保険副社長の片岡直温が社長として招かれ、以降会社の清算まで片岡が経営を行うことになった。 中間区間の未着工路線に着手するためには増資が必要であり、そのためには既に悪化していた会社の会計を整理して損失金を減資により滅却する必要があるとし、1899年(明治32年)4月30日の株主臨時総会で欠損金の処分案が可決された。これに基づき5月27日に欠損金22万4190円83銭4厘のうち22万4000円を減資することを決定し、7月24日に株主へ通知した。実際には減資の割合に応じて、株数を減らせる株主からは株数を減らし、端数が出る株主からは現金を追加徴収する形で処理され、発行済み株式数は元の2万8000株から4437株が控除されて2万3563株となり、資本金は140万円から減資された22万4000円を差し引き補填された現金2150円を加えて117万8150円となった。1899年(明治32年)10月1日付で減資が実行され、この際に従来仮株券のままであった株券を本株券に交換した。またこれに伴う定款改正は同年10月29日の臨時株主総会で承認を受け、翌1900年(明治33年)2月28日に逓信大臣の認可を得た。 さらに同じ10月29日の臨時株主総会において増資の議決を行い、追加の資本金65万円を新株1万3000株の発行で調達することになった。旧株3株につき新株1株を割り当てることにした。当時の法令改正で商法第211条「会社ハ其資本ヲ増加スル場合ニ限リ優先株ヲ発行スルコトヲ得」により一般の会社は優先株の発行が可能であったが、私設鉄道条例のもとにある鉄道会社は優先株発行には私設鉄道法の施行を待たなければならなかった。このため、鉄道会社に優先株の発行を認められることを条件として、新株は優先株とすることにした。なお、実際には新株発行を1万3437株として発行済み株式数を3万7000株に、追加の資本金を67万1850円として総額185万円と、切りの良い値にすることに変更された。優先株発行は翌1900年(明治33年)9月28日に認可を受け、12月1日に募集終了し12月15日に臨時株主総会で報告、12月25日に株式が発行された。優先株発行に際しても、6パーセントの配当は低率であり、例えば1901年に優先株を発行した近江鉄道は10パーセント、豊川鉄道、阪鶴鉄道、唐津鉄道は8パーセント、折からの不況に伴い申し込みは振るわず、既存株主に割り当てた株について、既存株に対する配当金を申込金とみなし充当するという強引な手段を取ってまで募集を行った。株主中から委員を任命して勧誘に務めたが、それでも募集が集まらず、責任を取って委員が自腹を切るということまで行われた。優先株発行後も、払込は遅れがちで低調であった。 この増資は将来的な優先株の発行認可を当てにしたものであり、いつのことになるかは当初は予測できなかった。一方で、18か月の工事施行期限延長認可を得ていたとはいえ、未成区間の完成期限は目前に迫ってきていたことから、一時的に借り入れを行って未成区間の工事費に充てざるを得なかった。このためまず1899年(明治32年)5月26日に10万円を徳川茂承(旧紀伊藩主)から、20万円を日本生命保険から借り入れた日本生命は明治32年4月18日付けで「有体動産売買契約書」「物件賃貸借契約証書」を締結し、機関車1号他車両を融資金額相当で譲受け同時にリースバックした。。さらに優先株発行の遅れと工事の予算超過のために、1900年(明治33年)9月26日に20万円を日本生命保険から、有価証券10万5000円を徳川茂承から借り入れた。債務総額は60万5000円となり、結局優先株発行で得られる資金は工事に費やすのではなく、この借入金の償却に充てられることになった。さらに1901年(明治34年)8月と10月には水害があって線路に被害を受け、復旧工事に多額の費用を費やし、建設費は結局総額215万円を費やすことになった。その不足を補うためもあり、1902年(明治35年)1月に徳川久子(徳川茂承の娘、徳川頼倫夫人)から7万2000円の追加借り入れを行った。予算の超過によって発生した借入金の利子を少しでも抑えるため、社債の発行を行うことになり、1901年(明治34年)10月28日の臨時株主総会に提案し32万円の社債発行承認を受け、1902年(明治35年)3月21日逓信大臣に申請し5月30日承認を受け、10月8日募集に着手、10月20日募集完了し10月29日に発行手続きを完了した。 片岡社長は、就任当時は橋の数は全部で12か所必要と説明されていたが、実際に全線を踏査すると44か所が必要であることが分かり、調査が杜撰であったことは明らかと批判した。その上で、途中の駅舎はすべて仮設構造物とし、短い橋は木橋とするなど可能な限りの倹約に務めるとした。また最大の紀ノ川橋梁について、従来イギリス式で設計されていたが、アメリカ式の設計技術が普及したことにより200フィート桁を250フィート桁に変更して費用を節減できるとした。こうした片岡社長の資金調達および工費節約の努力もあり、1899年(明治32年)12月9日に岩出村の大宮神社境内において残区間の起工式に漕ぎ着けた。残りの区間は紀ノ川に橋梁を架設する必要があるなど比較的難工事であったが、工事期限が迫っていたこともあり急速に進められ、まず1900年(明治33年)8月24日に船戸 - 仮粉河間5マイル19チェーン(約8,427 m)が開通し、11月25日に仮粉河 - 橋本間13マイル44チェーン(約21,801 m)も開通して、ここについに全線開通に漕ぎ着けることになった。最終的に建設費総額は226万903円94銭となった。 また、1903年(明治36年)に南海鉄道(後の南海電気鉄道)が紀ノ川橋梁を完成させて和歌山市駅まで3月21日に開通した。この南海鉄道との連絡のために、和歌山駅から鍋屋町にある南海鉄道連絡点まで29チェーン(約583 m)の延長工事を行い、同じ1903年3月21日に開通した。
※この「経営再建と全線開業」の解説は、「紀和鉄道」の解説の一部です。
「経営再建と全線開業」を含む「紀和鉄道」の記事については、「紀和鉄道」の概要を参照ください。
- 経営再建と全線開業のページへのリンク