経営再建と有松線の開通
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 15:05 UTC 版)
「愛知電気鉄道」の記事における「経営再建と有松線の開通」の解説
その後愛電は、軽便鉄道補助法に定められた「収益金が建設費の5 %に満たない場合は補助金を交付する」に基いて政府に補助金の給付を申請し、鉄道院による審査を経て1914年(大正3年)下半期より補助金の交付が認められた。 これにより下落する一方であった株価が急騰したことを受け、愛電は当時約5,000株ほど存在した未払込株についてこの機会に払込を完了させるべく尽力した。最終的に3,356株の失権株が発生したため、これらは有松線建設を要望した鳴海町・有松町在住の有力者に引き受けを要請し受諾され、1915年(大正4年)9月に払込が完了した。さらに発行済株式のうち3,000株について買入消却することとし、同年12月に10万円の借入金を資金として50円払込株を1株平均35円で買い入れ、15万円の減資を実施した。 これらに加えて役員報酬全廃や社内余剰品の売却など経費削減に努め経営再建に尽力した結果、第一次世界大戦勃発による景気の急速な回復の影響もあり、愛電の経営状態は危機を脱した。また同時期には名古屋 - 豊橋間を結ぶ高速電気鉄道の建設を画策する尾三電気鉄道の活動が活発となったため、同社への対抗の必要性から愛電は地元有力者であった有松絞り業者の竹田嘉兵衛を取締役に迎えるとともに、長らく棚上げとなっていた有松線の着工を急ぐこととした。 当初、有松線は小型の4輪単車が運行可能な程度の簡易な規格とする計画であったが、将来的な岡崎・豊橋方面への路線延長を念頭に、より大型の2軸ボギー車が運行可能な規格に設計を改め、1915年(大正4年)11月に着工された。有松線は元より地元住民から敷設を強く要望されていた路線であったため、用地買収は順調に進み、1917年(大正6年)3月に神宮前 - 笠寺(現・本笠寺)間が、同年5月には笠寺 - 有松裏(現・有松)間が開通し、神宮前 - 有松裏間9.7 kmが全線開通した。また有松線の開通を機に、神宮前 - 常滑間の路線名称を「常滑線」とした。 1916年(大正5年)頃より、日本国内の経済界は大戦景気と呼ばれる好景気となり、愛電では同年夏季に新愛知新聞社と提携して購読者を対象とした優待乗車券を発行し、新舞子・大野町など常滑線沿線の海水浴場への旅客誘致を図った。同年夏季は好天にも恵まれ、8月の輸送実績は前年比で3倍強を記録する盛況となった。また、同時期は貨物輸送についても需要が急増し、常滑の主要産業である土管・土器類の出荷量が過去最大となり、荷主の需要に対して貨車が不足したため急遽貨車を15両増備して対応した。これらの好材料により愛電の業績は著しく改善され、1917年(大正6年)上半期を最後に補助金交付を返上し、同年下半期には6 %の株主配当を行うに至った。 なおこの間、1917年(大正6年)6月に開催された役員会において、福澤は他業の多忙を理由に社長を辞任して相談役に退く旨を表明、後任には当時常務取締役であった藍川を推薦した。藍川は岩田・福澤の2代にわたって社長を補佐して経営に携わり、その手腕は多くの信頼を得ていたことから、全会一致で選任され愛電の3代目社長に就任した。
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