第七次多号作戦・クーパー撃沈
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「竹 (松型駆逐艦)」の記事における「第七次多号作戦・クーパー撃沈」の解説
「クーパー (駆逐艦)」も参照 第六次多号作戦が予想以上の成功をおさめたので、日本軍は第七次多号作戦を実施した。 第七次多号作戦部隊は、第一梯団、第二梯団、第三梯団と第四梯団にわかれていた。本艦は第七次多号作戦において松型駆逐艦5番艦「桑」(駆逐艦長山下正倫中佐、海兵53期)の指揮下に入った。12月1日午後6時、駆逐艦2隻(桑、竹)、第9号輸送艦、第140号輸送艦、第159号輸送艦という第三梯団/第四梯団でマニラを出撃した。「竹」には方面軍作戦参謀田中光祐少佐他数名の陸軍将校が乗艦していたという。マニラ湾口で船団部隊は陸軍潜水艦(マルゆ)と遭遇した。 12月2日昼間、敵小数機に触接されたが、空襲はなかった。航行中、酸素魚雷点検および訓練時の事故により魚雷1本を投棄、「竹」の残魚雷は3本となった。この頃になると、アメリカ軍は妨害のためにレイテから魚雷艇隊をはるばるオルモック方面に派遣するようになっており、11月28日夜半のオルモック襲撃に成功するなど戦果を挙げていた。第7艦隊司令官トーマス・C・キンケイド中将は、続いてオルモック方面に駆逐艦と掃海艇を派遣することとし、これも過去二度の作戦で日本軍潜水艦と小型貨物船を破壊する戦果を挙げていた。そして、三度目の作戦 としてアレン・M・サムナー (USS Allen M. Sumner, DD-692)、モール (USS Moale, DD-693) そしてクーパー (USS Cooper, DD-695) がオルモック湾に差し向けられる事となったのである。アレン・M・サムナー、モールおよびクーパーの第120駆逐群(ジョン・C・ザーム大佐) は18時30分にレイテ湾を出撃し、オルモック湾に急行した。出撃して間もなく、セブから飛来してきた戦闘八〇四飛行隊の月光や第一四一航空隊の瑞雲(水上爆撃機)に付きまとわれ、爆撃と機銃掃射によりモールは2名の戦死者と22名の負傷者を出した。また、アレン・M・サムナーおよびモールの船体にも若干の損傷が生じた。 12月2日夜、船団はオルモック湾に到着して揚陸を開始した。大発が輸送艦と陸上を往復して物資を揚陸させている頃、「竹」には第三次多号作戦で沈没した「島風」の上井宏艦長(海兵51期)や機関長上村嵐大尉、第二水雷戦隊の松原瀧三郎先任参謀(海兵52期)などが収容されていた。その後、「竹」は南西方向の、「桑」は南方の哨戒を開始した。「桑」が担当していた南方の海上では第120駆逐群がオルモック湾に入りつつあり、ザーム大佐は日本側の雷撃を警戒して、艦を横に広がらせた横陣の隊形で湾内に入っていった。オルモック湾に入った第120駆逐群は11,000メートル先の目標を狙い、まずクーパーが砲撃を開始した。この時までに「桑」も第120駆逐群を発見し、発光信号で敵艦発見を「竹」に知らせた。「桑」側は敵戦力を軽巡洋艦3隻と判断、照射砲撃と魚雷戦を開始した。12月3日午前0時30分頃より交戦がはじまる。最初の交戦はおよそ9分で決着がつき、駆逐艦主砲弾多数を被弾した「桑」は沈没した。第120駆逐群は次の目標を「竹」と定め、モール、アレン・M・サムナー、クーパーの順番で砲撃を開始した。「竹」は12.7cm 高角砲、25mm 機銃、酸素魚雷で「敵巡洋艦(駆逐艦の誤認)」に反撃を行った。オルモック湾内を24ノットで航行・機動するため、座礁を懸念しながら戦闘をおこなった。 最初の雷撃態勢は、宇那木艦長が砲撃による閃光で目がくらみ、また電気機器の故障により発射の機会を逃した。二度目の機会を得て魚雷2本を発射する。四番連管は起動弁の故障で発射できなかった。「竹」の水雷長志賀博大尉(海兵68期)が双眼鏡で第120駆逐群を観測していたが、やがて視界内の左端にいた駆逐艦が大きな火柱を吹き上げるのを目撃した。魚雷はクーパーの右舷に命中し、船体をV字に折られたクーパーは1分以内に沈没した。この後、「竹」は修理が終わった四番連管から魚雷1本を単独発射したが、こちらは命中しなかった。一方、モールは「竹」の前部機械室に命中弾を与えた(負傷者1名)。不発だったが浸水のため右舷1軸運転となり、「竹」は最大で左舷に30度も傾いた。しかし、「竹」もモールに高角砲弾を複数発命中させた。クーパー轟沈を「潜水艦からの雷撃」と錯覚していた米駆逐艦2隻(モール、サムナー)は戦場から避退した。これ以上の戦闘は行われなかった。 やがて第9号輸送艦から揚陸完了の報告を受け、缶に使用する真水の在庫が底を尽こうとしていた「竹」は30度傾いた状態のまま、第9号輸送艦から真水の供給を受けた。同時に二水戦参謀が第9号輸送艦に移乗した。夜明けまで残2時間となった時、第140号輸送艦および第159号輸送艦からも揚陸完了の報告を受けた「竹」は、第140号輸送艦および第159号輸送艦を先発させる。宇那木艦長はオルモックの陸上部隊に「桑」の生存者救助を要請した。12月3日3時に第9号輸送艦を率いてオルモック湾を出発。「桑」の生存者救助は、「竹」が中破して片舷航行の上、サーチライトを使わずに作業する事の難しさや、日が昇ってからの空襲を避けることを考慮して断念された。海面の桑生存者は通り過ぎる「竹」に救助を要請したが、竹側は「大発動艇がくるから頑張れ」と返答して過ぎ去った。すると最後尾の輸送艦が反転し、桑生存者8名を収容した。また生存者の一部はカッターボートで上陸、現地の海軍陸戦隊に合流した。 途中で傾斜を回復させた「竹」は12月4日午後、マニラに帰投した。マニラでは松型姉妹艦3隻(梅、桃、杉)が第八次多号作戦の出撃準備をおこなっており、「杉」では満身創痍の「竹」をみて作戦の困難さを悟ったという。マニラ港では、曾爾少将(輸送戦隊司令官)が桟橋まで出迎え、宇那木艦長と握手を交わした。続いて宇那木艦長は南西方面艦隊司令長官大川内傳七中将(海兵37期)から賞詞を受け、さらに差し向かいで夕食を馳走になった。宇那木艦長は後に、クーパー撃沈の戦いを「オルモック夜戦」と呼ぶ事を提唱した。また、宇那木艦長が、収容した便乗者の中に「島風」や第二水雷戦隊の関係者の名前があることを知ったのは、1968年(昭和43年)のことだった。なお、クーパー撃沈は日本駆逐艦が雷撃によって敵艦を撃沈した最後となった。12月5日から14日まで応急修理を行ったが、機関が修復できなかったために船速が上がらず、このことから作戦への再投入を免れて佐世保での回航修理が命ぜられた。
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