第一段階: ドイツによる侵攻
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「ポーランド侵攻」の記事における「第一段階: ドイツによる侵攻」の解説
ドイツ軍はポーランド侵攻に備えて国境近くに軍を移動させた。イギリスの『デイリー・テレグラフ』紙は開戦に先立つ8月29日付で、クレア・ホリングワース記者による目撃情報を基に「戦車1000両がポーランド国境に集結 10個師団が侵攻準備中」と報じていた。これは第二次大戦の始まりを告げた歴史的スクープと見なされている。 ドイツによる種々の自作自演の事件(ヒムラー作戦)は、ドイツの軍事行動は自衛権の行使なのだというプロパガンダに利用された。1939年8月31日、当時ドイツ領(現在はポーランド領)にあったグライヴィッツ(ポーランド名グリヴィツェ)市のラジオ放送局にアルフレート・ナウヨックス親衛隊少佐率いる特殊工作部隊がやってきて、ドイツ領シレジア地方のポーランド系住民に向けて、ストライキを決行するようポーランド語で呼びかけた。「ポーランドによるラジオ局襲撃事件」に見せかけるのが目的だった。よりそれらしく見せるために、親ポーランド的だとして前日ゲシュタポに逮捕されていたシレジア人のフランチシェック・ホニオックを現場に連行し、ポーランドの反乱兵の服装をさせ、彼に致死量の毒物を注射して銃で撃った。ホニオックの死体はまるでラジオ局襲撃の際の攻防で殺害されたかのように現場に放置され、ドイツの警察とマスコミに対して、これはポーランド側の襲撃の動かぬ証拠として差し出された。ドイツ側はこの偽装工作を「缶詰」(Konserve) という暗号で呼んでいた。そのためこの偽装工作事件は「缶詰作戦」という不正確な名前で知られている。ヒムラー作戦で実行されたドイツによる偽装工作はこのグライヴィッツ事件のほか、ポーランド国境付近の放火事件や偽のプロパガンダ活動事件など全部で21件とされている。アドルフ・ヒトラーは帝国議会での宣戦布告の演説でこれら21件の事件に触れ、ポーランドへの「自衛権」行使は第三帝国の正当な権利であるとした。 「白の場合」計画による大規模な軍事行動は宣戦布告がないまま1939年9月1日に開始された。午前4時半過ぎにドイツ空軍の急降下爆撃機がトチェフの橋梁周囲のポーランド軍を爆撃、正式な作戦開始時刻の午前4時45分には、ドイツ海軍の前弩級戦艦「シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」が自由都市ダンツィヒのヴェステルプラッテに駐屯するポーランド軍守備隊に対し艦砲射撃を始めた。ドイツ空軍が引き続きポーランドの各都市を爆撃するとともに、ドイツ陸軍はポーランド国境の西、南、北の3方から一斉に進撃を開始した。 午前8時に空軍の急降下爆撃に支援されたドイツ陸軍南部軍集団に属する2個装甲師団および1個歩兵師団が、ポーランド領シレジアの村モクラ近郊において地上攻撃を開始したが、ポーランド軍1個騎兵旅団(ヴォウィン騎兵旅団)、1個歩兵師団のいくつかの部隊、および数時間後に到着した1本の装甲列車(No.53「シミャウィ」号)によって同日中に撃退された。ドイツ軍の主力はポーランド西部国境から東へ向かうルートを進んだ。第2のルートは北の東プロイセンから進軍し、南方のスロバキアからは第3のルートとしてドイツ軍とスロバキア人部隊(ベルノラーク軍)が進軍した。これら全ての侵略軍はポーランドの首都ワルシャワを最終目標とした。 ポーランドの西側同盟国の政府は9月3日にドイツに宣戦布告した。しかし実際にはポーランドに対して具体的な援助をしなかった。ドイツ軍のほとんどの戦力(装甲部隊の85%)はポーランド攻撃に向けられていたのに、フランスはドイツを攻撃せず、独仏国境は静かなままだった。人はこれはまやかし戦争(英語:phony war、フランス語:Drôle de Guerre、ポーランド語:Dziwna wojna、ドイツ語:Sitzkrieg)と呼んだ。 ポーランド軍は国境付近でのいくつかの戦闘で勝利を収めることができたが、全体としてのドイツ軍の戦略的、戦術的、数的優位はゆるがず、国境地帯からワルシャワやルヴフの方へと後退させられていった。ドイツ空軍は作戦の早い段階で制空権を確保した。北から攻め込むクルーゲの部隊が当時の国境線から10キロメートル先にあったヴィスワ川に到達し、キュヒラーの部隊がナレフ川に行き着いた9月3日までに、ライヒェナウの機甲部隊はヴァルタ川を越えていた。2日後にはライヒェナウの部隊の左翼がウッチ市の後方へ進み、右翼がキェルツェ市に到達した。そのうちの1部隊は9月8日にはワルシャワ近郊まで迫ったが、これは最初の1週間で224キロメートルを進んだことになる。ライヘナウの右翼のうちの軽装の部隊は9月9日までにワルシャワとサンドミェシュ市の間にあるヴィスワ河畔地域に到達していた。このとき南部のリストの部隊はプシェミシル市近郊のサン河畔にいた。この間、グデーリアンは第3軍の戦車を率いてナレフ川を渡り、ワルシャワを包囲するようにして、ブーク川の敵戦線を攻撃していた。ドイツ軍全軍は予定通りに「白の場合」作戦を実行していた。ポーランド陸軍は寸断されて互いに連絡がつかず、いくつかの部隊は退却し、他の部隊は離れた味方と連携のとれないまま近くのドイツ部隊に攻撃を敢行せざるを得なかった。 ポーランド軍はこの国境の戦いと呼ばれる一連の戦闘の後、最初の1週間でポモージェ地方、ヴィエルコポルスカ地方、シロンスク地方を放棄せざるを得なかった。これによって、国境地帯を広く防衛するというポーランドの当初の計画は完全に誤りであったことが明らかとなった。一部に遅れがあったものの、全体としてドイツ軍の進軍はほぼ予定通りに行われた。新しく設定された東方の防衛線にまで後退するポーランド部隊はドイツ軍の進撃のペースに間に合わなかった。9月10日には、ポーランド軍総司令官ルィツ=シミグウィ元帥は全軍に対し東南部のいわゆるルーマニア橋頭堡地方への全面撤退を命令した。 一方ドイツ軍はヴィスワ川西方(ウッチ市やポズナニ市など)のポーランド軍に対し包囲網を狭めており、東部への進撃の準備にとりかかっていた。戦争の最初の数時間に猛烈な爆撃を受けたワルシャワ市は9月9日にドイツ地上部隊の最初の攻撃を受け、9月13日からは攻囲を受けた。そのころ、ドイツ軍の最前線部隊は東ポーランドの中心都市であるルヴフ市にまで到達していた。 9月14日にはラドムが陥落し、将官級を含むポーランド軍兵士約6000人が捕虜となった。また同日、チェコ国境付近でも約6000人の兵士が捕虜となった。さらに同日、ドイツ軍はワルシャワ市街地手前のヴィスワ川の複数地点で渡河に成功。参謀を含むポーランド第18師団は捕虜となった。さらに9月24日には1,150機ものドイツ軍機がワルシャワ市街を攻撃した。 ポーランド侵攻9月作戦における最大の戦い(ブズラの戦い(英語版))は、ワルシャワの西方にあるブズラ川の付近で9月9日から9月18日にかけて行われた。この8日間の激戦では、ポーランド回廊から後退してきた「ポズナン」軍団と「ポモージェ(ポメラニア)」軍団が、進撃するドイツ第8軍の側面を攻撃した。はじめはポーランド側が圧していたが、物量に勝るドイツ軍に対するこの攻撃作戦は失敗に終わることとなった。この敗北によってポーランド軍の主導権は完全に奪われ、大規模な反撃はもはや不可能な状況となった。 イグナツィ・モシチツキを大統領とするポーランド政府と、エドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥のポーランド軍最高司令部は9月1日にワルシャワを離れて東南部へと向かい、9月6日にブジェシチ市に到着した。そこでルィツ=シミグウィ元帥は全軍に対しヴィスワ川とサン川を越えて東方へ移動することを命令し、ルーマニア橋頭堡での長期防衛戦の準備に取りかかった。
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