第一段階: ドイツによる侵攻とは? わかりやすく解説

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第一段階: ドイツによる侵攻

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 07:21 UTC 版)

ポーランド侵攻」の記事における「第一段階: ドイツによる侵攻」の解説

ドイツ軍ポーランド侵攻備えて国境近くに軍を移動させた。イギリスの『デイリー・テレグラフ』紙は開戦先立つ8月29日付で、クレア・ホリングワース記者による目撃情報を基に「戦車1000両がポーランド国境集結 10師団侵攻準備中」と報じていた。これは第二次大戦始まり告げた歴史的スクープと見なされている。 ドイツによる種々の自作自演事件ヒムラー作戦)は、ドイツの軍事行動自衛権の行使なのだというプロパガンダ利用された。1939年8月31日当時ドイツ領(現在はポーランド領)にあったグライヴィッツポーランドグリヴィツェ)市のラジオ放送局アルフレート・ナウヨックス親衛隊少佐率いる特殊工作部隊がやってきて、ドイツシレジア地方ポーランド系住民向けてストライキ決行するようポーランド語呼びかけた。「ポーランドによるラジオ局襲撃事件」に見せかけるのが目的だった。よりそれらしく見せるために、親ポーランド的だとして前日ゲシュタポ逮捕されていたシレジア人のフランチシェック・ホニオックを現場連行しポーランド反乱兵の服装をさせ、彼に致死量毒物注射して銃で撃った。ホニオックの死体はまるでラジオ局襲撃の際の攻防殺害されかのように現場放置されドイツの警察マスコミに対して、これはポーランド側襲撃動かぬ証拠として差し出された。ドイツ側はこの偽装工作「缶詰」(Konserve) という暗号呼んでいた。そのためこの偽装工作事件は「缶詰作戦」という不正確な名前で知られている。ヒムラー作戦実行されドイツによる偽装工作はこのグライヴィッツ事件のほか、ポーランド国境付近放火事件や偽のプロパガンダ活動事件など全部21件とされている。アドルフ・ヒトラー帝国議会での宣戦布告演説でこれら21件の事件触れポーランドへの「自衛権行使第三帝国正当な権利であるとした。 「白の場合計画による大規模な軍事行動宣戦布告がないまま1939年9月1日開始された。午前4時半過ぎにドイツ空軍急降下爆撃機トチェフ橋梁周囲ポーランド軍爆撃正式な作戦開始時刻午前4時45分には、ドイツ海軍前弩級戦艦シュレスヴィヒ=ホルシュタイン」が自由都市ダンツィヒヴェステルプラッテ駐屯するポーランド軍守備隊対し艦砲射撃始めたドイツ空軍引き続きポーランドの各都市爆撃するとともにドイツ陸軍ポーランド国境の西、南、北の3方から一斉に進撃開始した午前8時に空軍急降下爆撃支援されドイツ陸軍南部軍集団属する2個装甲師団および1個歩兵師団が、ポーランドシレジアモクラ近郊において地上攻撃開始したが、ポーランド軍1個騎兵旅団ヴォウィン騎兵旅団)、1個歩兵師団いくつかの部隊、および数時間後に到着した1本の装甲列車(No.53「シミャウィ」号)によって同日中に撃退された。ドイツ軍主力ポーランド西部国境から東へ向かうルート進んだ。第2のルートは北の東プロイセンから進軍し南方スロバキアからは第3ルートとしてドイツ軍スロバキア人部隊(ベルノラーク軍)が進軍した。これら全ての侵略軍はポーランド首都ワルシャワ最終目標とした。 ポーランド西側同盟国政府9月3日ドイツ宣戦布告した。しかし実際にポーランドに対して具体的な援助をしなかった。ドイツ軍のほとんどの戦力装甲部隊85%)はポーランド攻撃向けられていたのに、フランスドイツ攻撃せず、独仏国境静かなままだった。人はこれはまやかし戦争(英語:phony warフランス語Drôle de Guerreポーランド語:Dziwna wojna、ドイツ語:Sitzkrieg)と呼んだポーランド軍国境付近でのいくつかの戦闘勝利を収めることができたが、全体としてドイツ軍戦略的戦術的数的優位ゆるがず国境地帯からワルシャワルヴフの方へと後退させられていったドイツ空軍作戦早い段階制空権確保した北から攻め込むクルーゲ部隊当時国境線から10キロメートル先にあったヴィスワ川到達し、キュヒラーの部隊ナレフ川行き着いた9月3日までに、ライヒェナウ機甲部隊ヴァルタ川越えていた。2日後にはライヒェナウ部隊左翼ウッチ市の後方進み右翼キェルツェ市に到達したそのうち1部隊は9月8日にはワルシャワ近郊まで迫ったが、これは最初1週間224キロメートル進んだことになる。ライヘナウ右翼のうちの軽装部隊9月9日までにワルシャワサンドミェシュ市の間にあるヴィスワ河畔地域到達していた。このとき南部リスト部隊はプシェミシル市近郊サン河畔にいた。この間、グデーリアンは第3軍戦車率いてナレフ川渡りワルシャワ包囲するようにして、ブーク川の敵戦線攻撃していた。ドイツ軍全軍予定通りに「白の場合作戦実行していた。ポーランド陸軍寸断され互いに連絡がつかず、いくつかの部隊退却し、他の部隊離れた味方連携とれないまま近くドイツ部隊攻撃敢行せざるを得なかった。 ポーランド軍はこの国境戦い呼ばれる一連の戦闘の後最初1週間でポモージェ地方ヴィエルコポルスカ地方シロンスク地方放棄せざるを得なかった。これによって、国境地帯広く防衛するというポーランド当初の計画は完全に誤りであったことが明らかとなった一部に遅れがあったものの、全体としてドイツ軍進軍はほぼ予定通り行われた新しく設定され東方防衛線にまで後退するポーランド部隊ドイツ軍進撃ペースに間に合わなかった。9月10日には、ポーランド軍総司令官ルィツ=シミグウィ元帥全軍対し東南部いわゆるルーマニア橋頭堡地方への全面撤退命令した一方ドイツ軍ヴィスワ川西方ウッチ市やポズナニ市など)のポーランド軍対し包囲網狭めており、東部への進撃準備とりかかっていた。戦争最初数時間猛烈な爆撃受けたワルシャワ市9月9日ドイツ地上部隊最初の攻撃を受け、9月13日からは攻囲受けた。そのころ、ドイツ軍最前線部隊は東ポーランド中心都市であるルヴフ市にまで到達していた。 9月14日にはラドム陥落し将官級を含むポーランド軍兵士6000人が捕虜となった。また同日チェコ国境付近でも約6000人の兵士捕虜となった。さらに同日ドイツ軍ワルシャワ市街地手前ヴィスワ川複数地点渡河成功参謀を含むポーランド第18師団捕虜となった。さらに9月24日には1,150機ものドイツ軍機がワルシャワ市街を攻撃したポーランド侵攻9月作戦における最大戦い(ブズラの戦い(英語版))は、ワルシャワ西方にあるブズラ川の付近9月9日から9月18日にかけて行われた。この8日間の激戦では、ポーランド回廊から後退してきた「ポズナン軍団と「ポモージェ(ポメラニア)」軍団が、進撃するドイツ第8軍側面攻撃した。はじめはポーランド側圧していたが、物量に勝るドイツ軍対するこの攻撃作戦失敗に終わることとなった。この敗北によってポーランド軍主導権は完全に奪われ大規模な反撃はもはや不可能な状況となったイグナツィ・モシチツキ大統領とするポーランド政府と、エドヴァルト・ルィツ=シミグウィ元帥ポーランド軍高司令部は9月1日ワルシャワ離れて東南部へと向かい9月6日ブジェシチ市に到着した。そこでルィツ=シミグウィ元帥全軍対しヴィスワ川サン川越えて東方移動することを命令しルーマニア橋頭堡での長期防衛戦準備取りかかった

※この「第一段階: ドイツによる侵攻」の解説は、「ポーランド侵攻」の解説の一部です。
「第一段階: ドイツによる侵攻」を含む「ポーランド侵攻」の記事については、「ポーランド侵攻」の概要を参照ください。

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