社会人(実業団)時代
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三重県NTNに入社1年目から中距離をメインにしながらも駅伝にも出場。全日本実業団選手権1500mで6位入賞。ニューイヤー駅伝の地区予選の中部実業団駅伝では2区区間2位。ニューイヤー駅伝では2番目に長い区間5区区間11位。2年目の日本選手権1500mで7位入賞。全日本実業団選手権1500mで3位。中部実業団駅伝6区区間賞。3年目の日本選手権1500mで2年連続の7位入賞。千葉国際クロスカントリー4kmで優勝。4年目は全日本実業団選手権1500mで6位入賞。国民体育大会三重県代表で8位入賞。5年目は日本選手権5位入賞。 この年から監督が代わったため、地元京都の実業団・佐川急便(現SGホールディングスグループ)に移籍。成績は千葉国際クロスカントリー5位。関西実業団駅伝3区区間2位。都道府県対抗駅伝京都代表。 佐川急便退社後、中距離に専念。2014年全日本実業団選手権で800m6位1500m7位と2種目で入賞。 アラタプロジェクトのサポートにより2015年のおきなわマラソンに出場し優勝。その後アラタプロジェクトに加入。 2015年日本選手権では決勝進出するも11位で終わる。同年8月にはアラタプロジェクトとして第68回十和田八幡平駅伝競走全国大会に出場。1区を務めた藤原新選手から襷を受け、2区を務めた。 2017年はひらまつ病院に所属し、翌2018年のニューイヤー駅伝に出場。
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社会人時代 (2008年 - )
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「笛木靖宏」の記事における「社会人時代 (2008年 - )」の解説
2008年、第一総合警備保障に入社。陸上と仕事を両立させるつもりだったが、大学4年時から腰に故障を抱えていたこともあり満足に走れない日々が続いた。速く走れない自分が気持ち悪く、人前で走るのが嫌になり、会社に迷惑をかけないように1年で退職した。 2009年、日本大学豊山高等学校の陸上競技部コーチを務めながら、教員免許を取得するため日本大学文理学部に通い始めた(3年かけて単位を取得)。 2011年、全日本実業団選手権の400mハードルで優勝し、日本インカレ以来4年ぶりとなる全国タイトルを獲得した。 2012年、競技に専念する1年と決めてロンドンオリンピック出場を目指した。日本選手権の400mハードルで初めて予選を突破し、準決勝では自身初の49秒台となる49秒94をマークするも決勝には進めず、オリンピック出場の夢はかなわなかった。 2013年、千葉市立幕張本郷中学校の教員に採用される。練習時間は極端に減ったが、結果を出さなければならないというプレッシャーから開放され、静岡国際の400mハードルで自己ベスト(当時)・モスクワ世界選手権B標準(49秒60)突破の49秒48をマークすると、東日本実業団選手権では岸本鷹幸を破り49秒75で優勝した。日本選手権では初めて決勝に進出すると、モスクワ世界選手権A標準(49秒40)突破の49秒38をマークし、岸本鷹幸に次ぐ2位に入った。この結果、アジア選手権とモスクワ世界選手権の日本代表に選出され、アジア選手権では金メダルを獲得したが、モスクワ世界選手権は予選敗退に終わった。 2015年、全日本実業団選手権の400mハードルで49秒92をマークして4位に入り、2年ぶりの49秒台と全国大会決勝を経験すると、400mは中学以来の全国大会入賞となる6位に入った。 2017年3月25日、Team Accel所属となった。
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社会人(実業団)時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/18 05:18 UTC 版)
長距離種目における実業団がない沖縄県を拠点に活動を続け、県内で数多く開催されているローカル大会に、アラタプロジェクトメンバーとして大会に出場し、沖縄の長距離競技レベル向上のため競技やPR活動を続けている。
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社会人(ホンダ所属)時代
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「藤原正和」の記事における「社会人(ホンダ所属)時代」の解説
2003年にホンダ入社後は日本選手権などに出場。しかしその後、右腸脛靭帯炎を発症、その症状が悪化してしまい世界陸上選手権出場を断念、1週間前に出場辞退を表明した。この後には故障と肝機能低下により思うように走れない期間があったという。2008年第52回全日本実業団駅伝では7区アンカー区間を走り、区間賞を獲得した。2010年第54回全日本実業団駅伝では4区を担当、前を行く北村聡(日清食品グループ)・尾田賢典(トヨタ自動車)を後半で交わし、先頭に立った。 2010年2月28日の東京マラソン2010では、雨や雪が降る悪天候で20kmの通過が1時間1分41秒とスローペースで進むレース展開の中、40km過ぎからスパートして抜け出し、藤原新・佐藤敦之らを抑え2時間12分19秒のタイムで優勝。3度目の挑戦でマラソン初優勝、また男子日本人選手による初優勝となった。 2012年2月26日の東京マラソン2012では、ライバルの藤原新・川内優輝らと共に国内招待選手でエントリー、日本人トップと同年8月開催のロンドンオリンピック男子マラソン代表選出を目指して出場。序盤の3km付近、外国選手らハイペースの先頭集団へ積極果敢についた日本選手は藤原正和一人だったが、17km過ぎで先頭集団から徐々に遅れ初め、中間点辺りで日本選手らの第2集団に吸収される。その後25km地点を過ぎると第2集団からも離されて31位となった。 2013年3月3日の第68回びわ湖毎日マラソンでは、30kmを過ぎた後ロンドン五輪男子マラソン代表・山本亮ら他有力選手が脱落する中、先頭集団に位置してレースを進めるが、37Km辺りから徐々に後退。優勝したヴィンセント・キプルトと17秒差となる、2時間08分51秒と日本人トップの4位でゴール。同年8月開催の世界陸上モスクワ大会への内定条件となる2時間8分未満には及ばなかったが、世界陸上選手権男子マラソン日本代表に名乗りを挙げ、同年4月25日に10年ぶり2度目の世界陸上へ正式に選出された。 2013年8月17日に開催された世界陸上モスクワ大会・男子マラソンでは20Km付近まで先頭集団についていたが、その後脱落。結局8位入賞には届かなかったが、日本人では中本健太郎(5位)に次ぐ2番目の14位に入った。 2014年12月7日開催の第68回福岡国際マラソンに出場。30Km付近で優勝争いからは脱落するも、日本人では首位となる2時間9分06秒の4位に入る。翌2015年8月開催の世界陸上北京大会男子マラソン代表の有力候補となり、2015年3月11日に同世界陸上選手権へ2大会連続3度目の日本代表選出が正式に決まった。 世界陸上北京大会開幕日の2015年8月22日、男子マラソンに出場したが、中間点付近で先頭集団から脱落。その後徐々に順位を落とし、結果21位と日本男子ではトップだったが目標の8位入賞には届かず、翌2016年開催のリオデジャネイロオリンピックの男子マラソン内定には至らなかった(前田和浩は40位、今井正人は欠場)。2016年3月6日の第71回びわ湖毎日マラソンに出場予定だったものの、右足脛部の疲労骨折により欠場、リオ五輪男子マラソン日本代表入りを断念した。
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社会人(資生堂)時代
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1992年 第76回日本陸上選手権 1500m,3000m/優勝 1993年 世界陸上選手権(シュトゥットガルト) 1500m 4分19秒67/予選記録 1993年 世界陸上選手権(シュトゥットガルト) 3000m 9分11秒77/予選記録 1994年 アジア競技大会(広島) 3000m 8分53秒74/2位(銀メダル獲得) 1996年 アトランタオリンピック 5000m 15分50秒43/予選記録 1997年 世界陸上選手権(アテネ) 5000m 15分27秒75/予選通過 1997年 世界陸上選手権(アテネ) 5000m 15分21秒19/決勝8位入賞 1997年 第81回日本陸上選手権 10000m 31分22秒72/優勝 1998年 名古屋国際女子マラソン 2時間28分12秒/3位 1999年 世界陸上選手権(セビリア) 10000m 31分26秒84/決勝4位入賞 1999年 第83回日本陸上選手権 10000m 32分08秒00/優勝 2000年 大阪国際女子マラソン 2時間22分56秒/2位/当時世界歴代9位・日本歴代3位(現在日本歴代8位) 2000年 水戸国際陸上競技大会 10000m 31分59秒60/優勝 2000年 シドニーオリンピック 10000m 32分07秒68/予選通過 2000年 シドニーオリンピック 10000m 32分24秒17/決勝20位 2001年 ロンドンマラソン 2時間29分01秒/12位 2002年 大阪国際女子マラソン 2時間24分34秒/2位 2002年 アジア競技大会(釜山) 2時間34分44秒/2位(銀メダル獲得) 2003年 全日本実業団対抗陸上大会 5000m/優勝 2004年 大阪国際女子マラソン 2時間31分07秒/5位 2004年 第88回日本陸上選手権 10000m 31分34秒08/3位 2004年 アテネオリンピック 10000m 32分15秒12/決勝18位 2005年 大阪国際女子マラソン 2時間25分56秒/3位 2005年 第89回日本陸上選手権 10000m 31分34秒79/2位 2005年 世界陸上選手権(ヘルシンキ)女子マラソン 2時間25分46秒/8位入賞(日本女子団体銀メダル) 2006年 名古屋国際女子マラソン 2時間23分26秒/優勝 2006年 上海国際マラソン 2時間32分33秒/2位(練習の一環として出走) 2006年 全日本実業団対抗女子駅伝競走大会 6区 20分18秒/区間賞・区間新記録(資生堂チーム優勝) 2007年 名古屋国際女子マラソン 2時間28分55秒/2位 2007年 北海道マラソン 2時間33分39/3位 2008年 名古屋国際女子マラソン 2時間29分50秒/9位 2009年 東京マラソン 2時間35分39秒/10位(現役ラストラン) その他、皇后盃全国都道府県対抗女子駅伝競走大会、横浜国際女子駅伝などにも出場。
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