社会人生活
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/25 11:05 UTC 版)
クララ・バートンは、1838年から12年間カナダと西ジョージアの学校で教育者を務めた。バートンはこの仕事を上手くこなした。クラスの暴れん坊も、子供のころから男兄弟らと過ごしていたため、扱いはお手のものであった。バートンは彼らの尊敬を得た事から、クラスの制御は容易となった。1850年、バートンはニューヨークのクリントン・リベラル・インスティテュート(Clinton Liberal Institute)で読み書きを研究し、教育をさらに進めることにした。 1852年、ニュージャージー州で初めてのフリースクールをBordentownで開くことになった。バートンは成功し、1年後に600人以上の生徒を教えるために別の女性を雇いいれ、その試みも成功した。この成果により、学校は新しい学校ビル建設のための約4,000ドルを調達することができた。しかし、これが完成した後、バートンは教育委員会が選出した男性に校長を譲ることとなった。教育委員会は、大きな組織の長に女性は相応しくないという姿勢をとっていた。バートンは神経衰弱と健康疾患で辞めるまで過酷な環境で働くことになった。 1855年、ワシントンD.C.に移り、米国特許庁の書記官として仕事を始めた。この仕事は、男性の給与と同じ給与をもらえ、連邦政府で重要な書記として女性を雇い入れた初めての仕事であった。しかしその3年間も、バートンは男性職員から多くの虐待と中傷を受けた。その後、官庁で働く女性に対する政治的反対がおき、1856年にジェームズ・ブキャナンの運営方針で、バートンの立場は写字生の立場に縮小され、「Black Republicanism(黒人共和主義者)」として解雇された。マサチューセッツ州にある親戚や友人と3年間住んでいたバートンは、エイブラハム・リンカーン選出後、1861年秋に一時的に写字生として米国特許庁に戻り、政府機関で働く女性の数が増えることを期待していた。
※この「社会人生活」の解説は、「クララ・バートン」の解説の一部です。
「社会人生活」を含む「クララ・バートン」の記事については、「クララ・バートン」の概要を参照ください。
- 社会人生活のページへのリンク