田中寅彦
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田中 寅彦(たなか とらひこ、1957年4月29日 - )は、将棋棋士。高柳敏夫名誉九段門下。大阪府豊中市出身。棋士番号127。棋聖のタイトルを獲得。竜王戦1組通算9期。順位戦A級通算6期。日本将棋連盟理事(2005年5月 - 2009年5月、2011年5月 - 2013年6月)。2012年12月に当時専務理事であった谷川浩司の会長就任に伴い、日本将棋連盟専務理事となり2013年まで務めた。
- ^ 「元祖」という呼び方に関して、アマチュア強豪の大木和博(大木は将棋のアマチュア棋戦で支部名人1回・赤旗名人3回獲得の戦績を有する)から訴えられたが、「二人とも元祖や創始者と呼ばれるにふさわしい」というのが裁判所の結論である(一審から最高裁まで、結論は一貫してそうであった。「居飛車穴熊戦法」訴訟参照。)結論としては、田中寅彦は「居飛車穴熊戦法の元祖」と呼ばれるのにふさわしい。(また同様に、大木も元祖と呼ばれるのにふさわしい。ちなみに世の中のさまざまなことで「元祖」と呼ばれたり名乗るのにふさわしい人が2〜3人いるという状態はさほど珍しくない)。(実際)居飛車穴熊自体は、史実では、1968年の第27期名人戦第2局で先手番の升田幸三が居飛車穴熊のコンセプト(当時の棋戦解説では「珍しい左穴熊」と記された。棋譜は週刊将棋編「不滅の名勝負100」(毎日コミュニケーションズ)で確認できる。)を後手番の大山康晴の四間飛車相手に実践していた。
- ^ とはいえ、後輩から「学ぶに値する先輩」とみなされ研究され、後輩が育ち、やがて乗り越えられてゆくことは、先輩としての功績であり名誉である。その羽生世代も既に、後輩世代の手本となり乗り越えられる側という状況になっている。
- ^ たとえば『羽生善治 神様が愛した青年』の帯にこの表現がある。
- ^ 使用駒が一字表記で、金と「成銀(「全」の「王」部分で横線が四本)」の表記が似ていることによる「成銀打ち」の反則は、島朗も1998年の銀河戦で行っている。島朗#人物を参照。
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