石井秀吉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/10/16 13:55 UTC 版)
| 石井 秀吉 七段 | |
|---|---|
| 名前 | 石井 秀吉 |
| 生年月日 | 1883年[注 1] |
| 没年月日 | 1941年11月2日(59歳・数え[注 1]) |
| プロ入り年月日 | 1918年 |
| 出身地 | 東京府京橋区(現:東京都中央区) |
| 所属 | 将棋同盟会 →将棋同盟社 →東京将棋連盟 →日本将棋連盟(関東) →将棋大成会(関東) |
| 師匠 | 川井房郷七段 |
| 弟子 | 長谷川清二郎、斎藤銀次郎、大和久彪、加藤恵三、佐瀬勇次 |
| 段位 | 七段 |
| 2022年2月22日現在 | |
石井 秀吉(いしい ひでよし、1883年[注 1] - 1941年11月2日[1][2])は、将棋棋士。七段[2]。東京の京橋生まれで深川育ち[2]。川井房郷七段門下[3]。
日本将棋連盟の創設時(創設当時は東京将棋連盟)の参加棋士20人のうちの一人[4]。
戦前死没者のため、日本将棋連盟ウェブサイト内「物故棋士一覧」に名前の掲載はないが、「棋士データベース」における加藤恵三八段、佐瀬勇次名誉九段の「師匠」欄、および「棋士系統図」[3]においてその名を確認することができる。
経歴
明治43年(1910年)28歳の時に入段[5]、大正4年(1915年)までに将棋同盟会(後の将棋同盟社、日本将棋連盟の前身の一つ)に付け出し二段で加入し[2][6]、同年中に三段[7]、大正7年(1918年)四段[2]、大正11年(1922年)五段[2]、大正14年(1925年)に六段[2]に昇段した。
1941年11月2日に病没[1][2][8]、享年59歳(数え)[1][2][8]。没後すぐに将棋大成会(日本将棋連盟の前身)より七段を追贈された[2][8]。
弟子
棋戦での活躍よりも、弟子の輩出で知られており、後の将棋界において石井一門の系譜の棋士は極めて多い。日本将棋連盟公式サイトの「棋士系統図」[3]においては、佐瀬勇次のほか、長谷川清二郎、斎藤銀次郎、大和久彪、加藤恵三が弟子として掲示されている。佐瀬は、石井と同様にプロ棋士としての活躍は無かったが、米長邦雄、丸山忠久、高橋道雄、木村一基、西村一義、田丸昇ら多くの優秀な弟子を輩出し、彼らからさらに多くの孫弟子(石井から見れば曾孫弟子)が輩出された。また、斎藤銀次郎の筋では、斎藤の孫弟子(石井から見れば曾孫弟子)にあたる所司和晴が多くの棋士を育てており、「平成の名門」と呼ばれている。
著書
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d 『写真でつづる将棋昭和史』毎日コミュニケーションズ、1987年3月、238頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
- ^ a b c d e f g h i j k 「石井七段逝く」『将棋世界』第5巻第12号、将棋大成会、1941年、68頁。 (国立国会図書館デジタルコレクション、館内限定公開)
- ^ a b c “棋士系統図”. 日本将棋連盟. 2019年8月17日閲覧。
- ^ 「日本将棋の歴史(8) - 将棋の歴史」『日本将棋連盟』。
- ^ 「日本将棋連盟会棋士略歴」『将棋月報』第8年 4月号、1930年4月10日、53頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 国民新聞社(編)『国民年鑑 大正4年版(11版)』民友社、1915年1月20日、570頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 国民新聞社(編)『国民年鑑 大正5年版』民友社、1915年12月11日、629頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c 『朝日年鑑 昭和18年』朝日新聞社、1942年、713頁。 - 国立国会図書館デジタルコレクション収蔵
関連項目
固有名詞の分類
- 石井秀吉のページへのリンク