永沢勝雄とは? わかりやすく解説

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永沢勝雄

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/01 08:58 UTC 版)

 永沢 勝雄 八段
名前 永沢 勝雄
生年月日 (1904-04-13) 1904年4月13日
没年月日 (1985-02-22) 1985年2月22日(80歳没)
プロ入り年月日 1937年
引退年月日 1946年
棋士番号 21
出身地 栃木県佐野市
所属 日本将棋連盟(関東)
師匠 飯塚勘一郎八段
段位 八段
棋士DB 永沢 勝雄
2025年3月1日現在
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永沢 勝雄(または 永澤 勝雄[1]〈ながさわ かつお〉、1904年4月13日 - 1985年2月22日)は、将棋棋士飯塚勘一郎八段門下。棋士番号は21。栃木県佐野市生まれ[2]

経歴

東京府立工業高等学校卒業後、1929年(昭和4年)に飯塚勘一郎八段に入門[2]

翌1930年(昭和5年)、初段昇段[2]

1937年(昭和12年)、四段昇段[2]

戦後に開始された順位戦(1946年〈昭和21年〉)には主旨不賛成のため参加せず[3]

その後、現役を引退[2]。奨励会幹事を務める傍ら、長く観戦記執筆を手掛ける。

1948年(昭和23年)、五段昇段[2]

1950年(昭和25年)、六段昇段[2]

人物

現役当時から文筆に長じる。

雑誌「将棋研究」(将棋研究会)でも執筆を行う。「将棋研究」誌は1947年3月発行分より「将棋評論」(将棋研究会)へと改名し、この時点で永沢は将棋研究会を退会した[4]

1949年〈昭和24年〉から1966年〈昭和41年〉まで、朝日新聞において名人戦の観戦記を「仏法僧」のペンネームで執筆した[5][6]

趣味は寺社巡礼、読書、囲碁[2]

原田泰夫九段によると、自身の奨励会時代に永澤が幹事長であり、公平に少年棋士を可愛がったという[7]。また、歩くのが好き、話し好き、文章が軽妙でうまかったと評している[7]

昇段履歴

  • 1929年00月00日 : 入門(飯塚勘一郎八段門下)[2]
  • 1930年00月00日 : 初段 [2]
  • 1937年00月00日 : 四段 = プロ入り [2]
  • 1946年00月00日 : 引退 [1][2]
  • 1948年00月00日 : 五段 [2]
  • 1950年00月00日 : 六段 [2]
  • 1974年11月03日 : 七段(贈七段、表彰感謝の日表彰)[8][9]
  • 1985年02月22日 : 死去 [5]
  • 1985年02月22日 : 追贈八段

主な成績

脚注

注釈

出典

関連項目

外部リンク




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