犯行とその手口
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長崎と別れたあと、実家にも頼れない光子は、「千坂の家から近々送金がある」と嘘をついて、南品川の岩城夫妻の世話になっていた。岩城家はひところほどの余裕がなく、親戚の日本鉄道会社副社長の毛利家に援助してもらっていることを聞きつけ、光子自らが毛利家に出向き、岩城家への援助金の半分を着服した。岩城家を出たのちも、「千坂からの送金」を口実に木賃宿に無賃滞在し、明治28年(1895年)8月に夜逃げをした。 口入屋に酌婦の紹介を頼み、九十九里の料理屋・高根屋米蔵のもとで働きはじめた光子は、周囲には京都の公家の落とし胤など吹聴していたが、米蔵ら親しくなった者には身の上を明かし、父の勘当が解ければ、以前していた宮中の女官に戻れると詐称し、そうなれば米蔵たちも上流からの引き合いがあることを仄めかして懐柔した。父に帰参を願うため米蔵と上京するが、実家の女中から帰参は難しそうだと聞くと、千坂家と付き合いのあった大隈家・上杉家などに出向いて奉公人と立ち話をする姿を米蔵に見せて信用させておき、明治29年(1896年)1月、米蔵の金を持ち逃げして姿を消した。米蔵は弁護士に相談し、東京地方裁判所に告訴状を提出した。 次に光子は、九十九里の馴染み客・渡辺治郎次の叔父で象牙彫師の後藤竹二郎が住む本所番場町に向かうが、その途中で神田末広町24井野多蔵方の車曳きにつかまり、井野宅で多蔵の妻・井野なみと知り合い、なみを詐欺の仲間とする。後藤夫婦にも身の上話と女官復職の話をして騙し、復職願いのために大隈綾子夫人を接待したいと、後藤の知り合いである栄太楼の外手町西河岸の別荘を借りて料理を用意させながら、急用で綾子夫人が来られなくなったと嘘をついて接待料理を平らげたり、女官に戻ったら行けないからと後藤に案内させて、吉原角海老楼で豪遊したりと後藤夫婦に散財させた。さらに、後藤の作品を大隈重信に献上したところ帝室技芸員に任命されそうだと作り話をして喜ばせ、3000円の支度金が出るから出仕できるよう準備しておくよう使いがあったと嘘をついた。後藤は、長男である日本橋矢ノ倉14で呉服商を営む秋山喜一郎を呼んで、式服や装身具3000円分を注文したが、たまたま顔見知りの質屋と出会ったところ、光子が後藤から得た作品や物品を質入れしていたことを知り、明治29年5月に本所警察に訴えた。 発覚を察知し、巡査が来る前に逃亡した光子は、九十九里で懇ろだった医師の知り合いである千葉の時計商・久保田源之助宅に入り込み、同様の女官復職話をし、大隈からの偽手紙で信用させた。大隈夫人が久保田に挨拶したいといっていると嘘をついて、8月に久保田と上京するが、行き違いになったため静養先での面会になったと嘘を重ね、箱根の福住に久保田と半月ほど投宿するも、多忙のため面会場所が大磯に変更になったと再び嘘をつき、招仙閣に投宿した。大磯の大隈邸、伊藤博文の滄浪閣、小笠原子爵邸など華族の別荘へ一人で出かけ、先方と会ってきたように装い、光子が女官に戻れるようみなが手配してくれていると久保田に偽り、信用させた。また、地元の俳諧道場鴫立庵の庵主・間宮宇山の顔が広いことを聞くと、弟子入りし、大隈家と自分は親類同然だと周囲に吹聴し、また小笠原子爵邸の留守番と親しくなって小笠原家の提灯を借り、奉公人から聞いた貴族社会の消息を、さも自分が貴人から直接聞いたかのように装って久保田に話し、自分の宮内省入りが間近であるかのように伝えた。さらに、小笠原邸に久保田を連れていって庭の門に待たせ、自分だけ庭園に入り、大隈令嬢に化けさせた手下の地元芸妓から出仕支度金の包みをもらう姿を見せる一方、貴族の習慣として支度金の包みは大隈夫妻の前でないと開けられないと言って、中身を見せなかった。光子を疑いはじめた宿の番頭が、駅に到着した小笠原子爵夫人を親しいはずの光子が遠巻きにして見ている姿を目撃し、宿代の支払いを急かしてきたため、大隈からの呼び出しの偽電報を仕立て、樺山邸で面会してきたように装い、久保田の将来のためになると言って、高官の夫人たちに渡す金時計10個を用意させた。手下の芸妓に時計を金に替えるよう指示し、鴫立庵でも時計を担保に金を借りたが、九十九里での光子の悪評が久保田の耳に入り、企みは失敗に終わった。久保田の損害は400円ほどだったが、警察には突き出さず、10月21日に光子を放逐した。 その後、最初の結婚時代の下女の嫁ぎ先である水戸市華木町の荒物商「近江屋」浅野孝之助宅に現れ、高等女学校建設の件で水戸に来たが300円入りのかばんを盗まれたと嘘をつき、世話になる。ここでも大隈の偽手紙を使って信用させ、学校設立のため毎日県知事を訪ねていると装いながら、大工町の常盤座にかかっていた壮士俳優堤清香一座の花形伊藤由次郎と懇ろになり、別の元下女の夫の兄の檜山義誠が村長を務める金持ちであることを聞きつけると、檜山を水戸に呼び付けて金を騙しとり、学校設立の寄付も約束させた。また、髪結いを通じて代議士・関戸寛蔵の妾に近づき、学校設立のため下田歌子ら一行が水戸に来ると嘘をつき、その支度金の立て替えを依頼、檜山へも寄付金の支払いを請求し、合わせて500円ほどを詐取する予定だったが、「怪しき貴婦人の豪遊」という記事が新聞に載ったことで、檜山が県知事に確認して嘘が発覚、水戸警察署が動いて後藤竹二郎から詐欺被害の訴えが出ていることがわかり、明治29年10月末に俳優伊藤と宿に潜伏していたところを逮捕された。翌30年3月2日に公判が開始され、11日刑が確定したが、高根屋米蔵が持ち逃げされた件は無罪になった。
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