海賊が生まれた経過
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/10 06:19 UTC 版)
「カリブ海の海賊 (歴史)」の記事における「海賊が生まれた経過」の解説
海賊は、海戦で使役された元水夫が多かった。フランス語の"boucan"(火の上にかざされた木枠)の上の"boucanier"(肉を燻すという意味)から派生したバッカニアと呼ばれた。煙を出す火およびブーカンの上に島に残っていた牛の肉とを撒き餌にして、島の漂流者が沖を行く船を交易のために近寄らせたように、海賊が船を捕まえることができたからだった。海賊は、植民地を支配する権力者によって住んでいた島を追われたので、海上で他の船舶を襲撃し続けて新しい生き方をしていくようになった。ヨーロッパの商船を攻撃し(特にカリブ海からヨーロッパに向かうスペイン船隊)、その貴重な荷物を捕獲するという、船乗りにとって魅力はあるが、法に触れる機会を作りだした。これは16世紀に始まった。海賊行為は、例えばフランス王フランソワ1世(在位1515年-1547年)の時代には、植民地権力者によって「合法」とされた。これは、大西洋やインド洋で領海政策を確立したライバル国の海上貿易を弱めることを期待したものだった。この合法的な海賊行為は私掠と呼ばれた。1520年から1560年、フランスの私掠船だけでスペイン王国と新世界における広大なスペイン帝国の商業圏に戦いを挑んだ。後にはイングランドやオランダの私掠船も加わった。以下はウェールズの海賊からの引用であり、18世紀カリブ海の海賊に対する動機を示している。 「 まっとうな仕事は、食い物は粗末だし、賃金は安くて仕事はきつい。この仕事(海賊)はお宝はたんまり手に入るし、楽しくて簡単、そして自由で力がある。こんなうまい仕事、やらずにいられる奴がいるのかい? 最悪の時は縛り首にもなるだろうが、「人生は太く短く」が俺のモットーだ。—海賊船長バーソロミュー・ロバーツ 」 カリブ海は、1492年にクリストファー・コロンブスが新世界を発見して以来、ヨーロッパの貿易と植民地化の中心になった。1493年、トルデシリャス条約によって、カーボベルデから370リーグ (2.193 km) 西の南北方向線(子午線)で、ヨーロッパ以外の世界をスペインとポルトガルの間で山分けした。このことでスペインはアメリカ大陸の支配権を得、後にこの位置づけは同じくらい強制力のない教皇勅書(教皇子午線)によって補強された。スパニッシュ・メインにおいて、重要な初期開拓地は現在のコロンビアのカルタヘナ、パナマ地峡のポルトベロとパナマシティ、キューバ南東海岸のサンティアゴ、イスパニョーラ島のサントドミンゴだった。16世紀、スペインはヌエバ・エスパーニャ(メキシコ)のサカテカスやペルーのポトシ(実際には現在のボリビアにある)にあった鉱山から驚くべき量の銀塊を掘りだした。新世界から旧世界に運ばれたスペインの銀が、海賊や、フランソア・ル・クレールやジャン・フルーリーなどフランスの私掠船を惹きつけた。どちらもカリブ海や大西洋にいて、カリブ海からセビリアに向かうルートにあった。 これと闘うのは常に危険が伴った。1560年代、スペインは護送船団方式を採用した。スペインの宝物艦隊すなわち「フロータ」は毎年スペインのセビリア(後にはカディス)から乗客、兵士およびヨーロッパで製造された商品を新世界にあるスペイン植民地に運んだ。この荷物は利益が出たが、実際には船隊のための錘を形成したに過ぎず、真の目的は1年間に採掘された価値ある銀をヨーロッパに運ぶことだった。旅の最初の段階はペルーやヌエバ・エスパーニャの鉱山で採れた銀を、シルバー・トレインと呼ばれたラバの隊列で主要なスペイン領の港に運んだ。港はパナマ地峡やヌエバ・エスパーニャのベラクルスにあった。「フロータ」がシルバー・トレインと落ち合うと、積んできた商品を降ろして待っていた商人に渡し、それから貴重な積み荷である金や銀(塊や貨幣の形態)で船倉に積んだ。このことで帰りのスペイン船隊は魅力ある標的になったが、海賊は守りの堅い主要船舶を捕まえようとするよりも船隊の跡をつけてはぐれた船を攻撃した。カリブ海を通る宝物船隊の通常のルートは、小アンティル諸島から中央アメリカやヌエバ・エスパーニャ海岸のスパニッシュ・メインにある港を通り、北に向かってユカタン海峡を抜け西風を掴んでヨーロッパに向かうものだった。 プロテスタントの国であるオランダやイングランドは、1560年までにカトリック国スペイン(16世紀キリスト教国の中で最強国)に反抗しており、一方フランス政府はスペインが大きな利益の出ることを証明して見せた新世界における植民地を拡張しようとしていた。1564年、現在のフロリダ州ジャクソンビルの近くにカロリーヌ砦を設立して、カリブ海で初のスペイン以外の開拓地を設立したのがフランスだった。しかしより大きな植民地であるスペイン領セントオーガスティンから来たスペイン軍の攻撃で、この開拓地はすぐに消滅した。トルデシリャス条約は強制力を持たないことが証明され、北の境界が北回帰線であり、東の境界がカナリア諸島を通る本初子午線であるという「友好の線」という新しい考え方が、カトー・コンブレシス和平協議のフランスとスペインの交渉者によって口頭で合意されていたと言われている。この境界線の南と西では非スペイン船に保護が与えられず、「線を超えた和平は無い」という概念になった。イングランド、オランダ、フランスの海賊と開拓者は、スペインとの名目上の和平の時でもこの地域に入っていった。 当時のキリスト教世界で最強国だったにも拘わらずスペインは広大な大洋を支配するために十分な軍事力を供給できず、その独占的かつ重商主義的交易法を強制できなかった。これらの法はアメリカ大陸におけるスペイン帝国の植民地人とスペイン商人が交易するときのみ認められた。この法の整備によって、絶えずスペインの交易法を破る密貿易を許し、イングランド、フランス、オランダによって平時におけるカリブ海の新しい植民地化の試みを許した。ヨーロッパ列強の間で戦争が始まったときはいつも、カリブ海では海賊行為や私掠行為が広がる結果になった。 1585年から1603年の英西戦争は、新世界における貿易紛争が原因の一部だった。その植民地で生産的で自活できる開拓地を築くよりも、新世界から鉱物と農業の富を引き出すことに力が注がれた。西ヨーロッパに大量の銀や金を運ぶことによってもインフレが加速された。ヨーロッパでは金のかかる戦争が絶え間なく続き、貴族はその背後にある商業的機会を見くびっていた。産業を損なう料金や関税の非効率な仕組みが全て、17世紀にスペインが強国の座を降りていくことに貢献した。しかし、大変利益の出る貿易はその植民地と海外帝国の間で継続され、19世紀初期まで拡大を続けた。 一方カリブ海では、コロンブスと共にヨーロッパの疫病も伝来し、先住民族であるインディアンの人口を減らしていた。ヌエバ・エスパーニャの先住民は16世紀の人口から90%も減っていた。先住民の人口が減ったことで、スペインはスペイン領アメリカの植民地、プランテーション、鉱山を経営するために、次第にアフリカ人奴隷の労働力に依存するようになり、大西洋奴隷貿易は、スペインの重商主義法を侵害したいイングランド、オランダ、フランスの交易業者にとっての新しい利益源となり、そうすることで、刑事免責となった。しかし、カリブ海地域の人口が比較的少ないことは、イングランド、フランス、オランダに独自の植民地を築かせることにもなり、特に金や銀が捕獲される商品よりも重要ではなくなると、換金作物としてのタバコやサトウに置き換えられ、それらが人を大変豊かにできた。 スペインの軍力がヨーロッパで弱くなると、新世界におけるスペインの交易法は他国の商人によって侵害されることが甚だしく多くなった。南アメリカ北海岸沖のトリニダード島のスペイン港は1592年に恒久的な開拓が行われたばかりだったが、カリブ海に拠点を置く国全ての間の接触点になった。
※この「海賊が生まれた経過」の解説は、「カリブ海の海賊 (歴史)」の解説の一部です。
「海賊が生まれた経過」を含む「カリブ海の海賊 (歴史)」の記事については、「カリブ海の海賊 (歴史)」の概要を参照ください。
- 海賊が生まれた経過のページへのリンク