活動とノーベル賞
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「デズモンド・ムピロ・ツツ」の記事における「活動とノーベル賞」の解説
この時代、彼は監獄に囚われているウムコント・ウェ・シズウェ(英語版)(民族の槍)を代表して証言した。この組織は違法組織とされた、アフリカ民族会議(ANC)に繋がる反アパルトヘイト武装組織である。彼は非暴力を誓い、暴力に訴える全ての側の人々を非難するが、どの非暴力的戦術もアパルトヘイトを覆すに至らないと証明された時、他の黒人アフリカ人がなぜ暴力へと向かうのかは理解できると述べた。先の演説では、南アフリカ政府に対する武装闘争が成功する見込みは小さいという見解を表明していたが、西側諸国を偽善者とも言い放ち、西側諸国が南アフリカの武装解放組織を非難しているのに、第二次世界大戦中のヨーロッパにおける武装解放組織は賞賛していたことを指摘した。 デンマークのジャーナリストに対し、南アフリカに対する国際的な経済的ボイコットを支持すると述べた後、ツツは1979年10月に懲罰のために2人の閣僚の前に呼び出された。1980年、政府は彼のパスポートを没収した。この行為はツツへの国際的注目を高め、アメリカ国務省とロバート・ランシー(英語版)のような聖公会の要人からの非難を招いた。ツツはまた、捕らわれていた反アパルトヘイト活動家、マンデラの解放を求める請願書に署名をした。マンデラの解放は当時まだ国際的な重大事(cause celebre)とはなっていなかった。1980年、SACCは南アフリカの人種法の数々に対する市民の不服従を組織として支援することを誓った。5月にソーンが逮捕された後、ツツとジョー・ウィング(英語版)は抗議の行進を主導し、この最中に治安警察(riot police)に逮捕され、一晩拘束され罰金を課された。当局はツツの旅券を押収した。この出来事の余波として、ツツを含む20の教会の指導者たちと、ボータ首相、そして7人の閣僚の間で会談が行われた。この8月の会談では、宗教指導者たちは政府にアパルトヘイト関連法を廃止するように促したが成功しなかった。数名の牧師たち(clergy)がこの政府との対話は無意味であると考えていたが、ツツはこの見解に同意せず、「モーセはイスラエルの民の解放のために、繰り返しファラオの下へ向かった。」と結んだ。 1981年1月、政府はツツのパスポートを返還した。3月、彼はヨーロッパのと北アメリカの10ヶ国を巡る5週間の旅を始めた。この旅程で、国連事務総長クルト・ヴァルトハイムを含む政治家たちに面会し、アパルトヘイト対策国連特別委員会(英語版)に出席した。イギリスで彼はランシーと会い、ウェストミンスター寺院で説教を行い、ローマでは僅かな時間、教皇ヨハネ・パウロ2世と過ごした。南アフリカへ戻ると、ボータは再びツツのパスポートを没収するよう指示し、ツツが更に複数の名誉学位を集めるのを防いだ。彼が帰国してから17か月後、パスポートは返還された。1982年、彼はニューオーリンズの聖公会のTriennial Conventionに出席し、その後ケンタッキー州にアメリカ人の夫と共に住んでいた娘のナオミに会った 。彼はレーガン大統領が、前大統領のカーターよりも南アフリカ政府と良好な関係を持つ方針を取ったことを憂慮し、レーガン政府が「我々黒人にとって紛れもない災厄」だと語った。パトリック・ブキャナンやジェリー・ファルエルのような白人保守派は、ツツが共産主義同調者であると厳しく非難したが、ツツはアメリカの一般市民からの支持を得、しばしば公民権運動のリーダー、マーティン・ルーサー・キング2世と比較された。 この賞は、鉄道駅に座ってジャガイモやトウモロコシ(mealies)や農産物を売ってかろうじて生計を立てる母親たちのための賞です。この賞は、単身者用のホステルに座り、1年の内11か月間子供たちから引き離されているあなたたち父親のための賞です...この賞は、KTCの不法居住者キャンプで、毎日無常にも住処(shelters)を破壊され、冬の雨に浸されるマットレスで、泣いている赤ん坊を抱きしめて座っているあなたたち母親のための賞です...この賞はあなたたち、故郷から追い出され、ごみのように捨てられた350万人の同胞のための賞です。この賞はあなたたちの賞です。 ノーベル平和賞受賞時のデズモンド・ツツの演説 1980年代、ツツは多くの黒人系南アフリカ人の象徴となっており、彼の名声に匹敵するのはマンデラだけであった。1983年8月、アパルトヘイトに反対する南アフリカ人は、統一民主戦線(英語版)(UDF)を結成し、ツツはその後援者の1人に選ばれた。一方で、彼は政府、報道機関、そして白人の民衆を怒らせた。ツツを批判する人々は、ほとんどアパルトヘイトの終了を望まない白人保守派であった。彼はThe Citizen(英語版)や、南アフリカ放送協会のような親政府的な報道機関から非難された。この攻撃(critiism)はしばしば、ツツの中産階級的なライフスタイルが、彼が代表する黒人の貧困層といかに対照的なものであるか、ということを標的としていた。 彼は嫌がらせの手紙(英語版)を受け取り、白い狼(英語版)のような白人極右や、白人グループからの殺害予告を受けた。彼の政府に対する怒りのレトリックは、アパルトヘイトが徐々に改革される可能性を信じていた多くの白人リベラルとの間に距離を作った。公然とツツを非難する白人リベラルの中には、アラン・ペイトンやビル・ブルネット(英語版)のような人々がいた。だが、ツツはそれでもヘレン・スズマンのような他の著名な白人リベラルとの密接な関係を残していた。 1984年、ツツはニューヨークにある聖公会教会のGeneral Theological Seminary(英語版)で3か月の長期休暇に入った。ニューヨークでは10月の国連安保理での演説を依頼され、12月には連邦議会黒人幹部会(英語版)、アメリカの下院、上院のアフリカ小委員会と会談し、南アフリカに対する圧力を促した。彼はまた、ホワイトハウスに招待され、ロナルド・レーガン大統領と面会した。彼はレーガンに対し、南アフリカ政府に対するアプローチを変更するように促したが、成功しなかった。南アフリカの黒人の権利よりも冷戦における同盟関係を推進するというレーガンの決定に関連して、ツツは後にレーガンを「純粋で単純なレイシスト」であると述べている。 ツツが1984年のノーベル平和賞を受賞したことを知らされたのは、このニューヨーク滞在の間であった。彼は以前にも1981年、1982年、1983年にノミネートされていた。1984年の受賞者を決めるためノーベル賞選考委員会が集まった時、彼らは南アフリカの問題への認識を高めるため同国出身者に賞を贈るべきであると合意し、ツツは他の南アフリカ人の候補者であるネルソン・マンデラやマンゴスツ・ブテレジよりも議論の余地が少ないと判断した。ツツはロンドンを訪れ、南アフリカの「一般市民(the little people)」にこの賞を捧げるという公式声明を発表した。12月、彼はノルウェーの首都オスロで開かれた授賞式に出席し、スウェーデン、デンマーク、カナダ、タンザニア、ザンビアを経由して帰国した。彼は192,000ドルの賞金を、家族、SACCのスタッフ、亡命中の南アフリカ人のための奨学基金と分かち合った。彼は1960年のアルベルト・ルツーリに続く2人目の南アフリカ人のノーベル平和賞受賞者である。南アフリカ政府と、主流の報道機関はそれぞれこの賞を軽視したり、非難したりし、アフリカ統一機構は、これはアパルトヘイトの崩壊が差し迫っている証であるとして歓迎した。
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