毎日放送アナウンサー時代
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「子守康範」の記事における「毎日放送アナウンサー時代」の解説
大学卒業後の1985年に、現在もスポーツアナウンサー(2021年11月以降は「シニアスタッフ」扱いの嘱託契約アナウンサー)として活動する森本栄浩と共に、アナウンサーとして毎日放送に入社。森本以外の主な同期局員に虫明洋一(2021年6月より毎日放送社長)、宮前徳弘(子守と同じ慶應義塾大学出身。スポーツ局の記者・ディレクター・プロデューサーを経て2016年度より解説委員)、神津梓がいる。 毎日放送への入社当初は、森本とともにスポーツ中継の実況・リポーターを担当した。毎日放送が1985年入社のアナウンサー採用条件をスポーツ実況の志望者に限っていたことによるものだが、子守自身はスポーツアナウンサーを志していないことを伏せながら入社したため、短期間でスポーツ担当から離れた。後に子守自身が述懐したところによれば、野球のルールに詳しくなかったにもかかわらず子守と同じ経緯で毎日放送にアナウンサーとして採用された当時の上司・斎藤努には、前述した本心を早くから見抜かれていたという。 その一方で、入社当時の身長が197cmであったことから、「日本一背の高いアナウンサー」として注目。『あどりぶランド』などのテレビ番組へ出演するかたわら、スポーツ担当を外れてからは、『MBSヤングタウン』『MBSサタデーコネクション ノッTEL土曜日子守です』などのラジオ番組でパーソナリティを務めた。 1990年には、湾岸戦争の取材で中東へ滞在。1994年8月末には、同年9月から『MBSナウ』(MBSテレビで日曜日以外の夕方に放送されていたローカルワイドニュース)の月〜金曜日メインキャスターに就任することを前提に、毎日放送の開局40周年および関西国際空港の開港記念特別番組に向けて東南アジア諸国を取材していた。しかし、同年8月26日にその取材で滞在していたカンボジアから『それゆけ!金曜板東英二』(当時MBSラジオで放送されていた生ワイド番組)へ中継リポートを入れた際に、「現地で飛行中の旅客機を操縦させてもらった」と取れるコメントを述べた。子守は旅客機の操縦に関する免許を一切持たないことから、実際には操縦室の操縦席に座っただけであったが、放送直後に一部の新聞・雑誌が「無免許で旅客機を操縦したのではないか」と指摘。この指摘を重く見た毎日放送では、操縦室への入室や前述のリポートを「聴取者の誤解を招く軽率な行為であった」として、子守に6か月間の番組出演停止処分を課した。この処分によって、『MBSナウ』メインキャスターへの就任も白紙に戻されている(MBSナウ#エピソードで詳述)。 1995年1月17日に阪神・淡路大震災が発生。毎日放送では、「震災報道に携わるアナウンサーの人手が足りない」との理由で、子守への出演停止処分期間を3ヶ月に短縮した。これを機に、『がんばれ!被災者の皆さん』(MBSラジオの被災地復興支援番組)のキャスターとして番組に復帰。1996年4月から1998年3月までは、「(前述の飛行機操縦疑惑以来)落ち込んでいる子守を励ましたい」というやしきたかじんの希望から、『たかじん生JIN JIN』(たかじんの冠番組でもあったMBSラジオの生ワイド番組)で2代目のアシスタントを務めた。
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毎日放送アナウンサー時代
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「子守康範」の記事における「毎日放送アナウンサー時代」の解説
テレビ スポーツ実況・中継リポーター(野球、アメフトなど) あどりぶランド 4時ですよーだ レインボー うきうき晴レルヤ! ほかラジオ 森高千里のM伝説森高が出演する本編とは別に収録されていたインフォメーションコーナーを担当。森高からも、「日本一背の高いアナウンサー」と紹介されていた。 MBSヤングタウン (水曜日、金曜日) ラジオであどラン歌謡曲(1985年10月12日 - 1986年4月5日) MBSサタデーコネクション ノッTEL土曜日子守です(1988年4月16日から毎週土曜日の午後に放送されていた生ワイド番組) それゆけ!(月曜日) たかじん生JIN JIN がんばれ!被災者のみなさん - 阪神・淡路大震災の情報番組 諸口あきらのイブニングレーダー たなぼたメール(オセロと共演) 毎日放送ダイナミックナイター(現在の『MBSベースボールパーク』)
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毎日放送アナウンサー時代
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大学卒業後の1968年に、アナウンサーとして毎日放送(以下「MBS」と略記)に入社。同期入社のアナウンサーに、青木和雄や板倉俊彦などがいた。 ちなみに角は、MBSに加えて、同じ在阪の民放局である朝日放送 (ABC) のアナウンサー試験も受験。両局とも、生田教室での同期生・山本清久と共に最終選考へ残ったが、自らの意思でMBSへの入社を決めたという。なお、山本も、アナウンサーとしてABCに採用されている。 入社直後にレギュラーで出演したラジオ番組から、出演番組ではほぼ一貫して、柔らかい口調の大阪弁でフリートークを展開(後述)。1970年代に出演の『MBSヤングタウン』(MBSラジオ、以下『ヤンタン』と略記)で笑福亭鶴光・佐々木美絵とともに人気を集めたことをきっかけに、活躍の場をMBSテレビの深夜番組(『夜はクネクネ』『イカにもスミにも』『板東英二のわがままミッドナイト』など)にも広げた。また、MBSラジオが毎年実施している特別番組『毎日カルチャースペシャル ラジオウォーク』には、1982年の第1回から2011年の第30回まで通算で23回出演。第1回から第22回(2003年)までは、22回連続で総合司会を務めた。 ラジオパーソナリティとしては、1978年にMBSラジオで放送した『角淳一のライブジョッキー「ザ・カケフ」』で、同年度の日本民間放送連盟賞・ラジオ娯楽部門最優秀賞を受賞。1984年3月まで長きにわたって『ヤンタン』へ出演した後には、同年4月から10年にわたって、平日午後の生ワイド番組『すみからすみまで角淳一です』(以下『すみから』と略記)のメインパーソナリティを務めた。 MBSへの在職中には、アナウンサーとしての活動を続けながら、アナウンス第三部長、アナウンサー室次長、主幹・役員待遇ラジオテレビ副本部長職を歴任。1994年4月からは、『すみから』の後継番組『すみからすみまで愛なのね』(以下『愛なのね』と略記)に出演していた。しかし、『愛なのね』を担当していた1996年5月6日に自宅で体調不良を訴えたことをきっかけに、主治医から脳梗塞と診断されたため緊急入院。そのまま『愛なのね』を降板するとともに、1997年10月の『すみから』復活まで、1年5か月にわたって休養を余儀なくされた。
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毎日放送アナウンサー時代
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「近藤光史」の記事における「毎日放送アナウンサー時代」の解説
新人時代からテレビ・ラジオで数々の公開収録(または生放送)番組の司会・進行役を務めてきたこともあって、緊急時を除けば、テレビ・ラジオでストレートニュースを読む機会が他のアナウンサーに比べて少なかった。 同期入社の野村・平松や、1年先輩の松井昭憲(いずれも元アナウンサー)とは、現在に至るまで親交が深い。毎日放送のアナウンサー時代には、『あどりぶランド』の実験企画「ハジソン博士」シリーズをはじめ、松井とのコンビ(コンちゃん・マッちゃん)がテレビ・ラジオを問わず人気を博した。 2018年12月まで毎日放送のアナウンサーであった水野晶子(滋賀県草津市出身のフリーアナウンサー・落語家)が自己紹介などで多用する「どうせ私は草津のおんな」というキャッチフレーズは、水野が大阪テレビタレントビューロー所属の契約アナウンサーだった1980年代の前半に、当時アナウンス室での上司だった近藤が付けたという。
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毎日放送アナウンサー時代
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「豊崎由里絵」の記事における「毎日放送アナウンサー時代」の解説
MBSニュース(テレビ・ラジオとも2019年7月まで不定期で担当)テレビについては、2017年7月から2018年3月まで、『報道特集』(TBSテレビ制作)内のローカルニュース・気象情報を定期的に担当していた。
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