正規の硬貨と私製銅貨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 08:21 UTC 版)
「マシュー・ボールトン」の記事における「正規の硬貨と私製銅貨」の解説
「代用貨幣 (コンダー・トークン) 」も参照 国内市場に流通する硬貨の3分の1を私製もしくは模造品が占める状況を受けて王立造幣局は1786年、業務を停止、市場はますます混乱した。純銀の硬貨にいたってはほぼ見かけなくなり、政府発行の銅貨でさえ密かに鋳潰してほかの金属を混ぜる打ち直しが横行、重量の足りない模造品がどんどん流通したのである。王立造幣局は1773年から1821年まで、じつに48年にわたり銅貨を発行していない。そこで足りなくなった銅貨を補うため、事業主はそれぞれ正規のハーフペニー銅貨(英語版)とほぼ同じサイズの私製硬貨を用意して使うようになり、ボールトンも何百万枚も受注した。たまに王立造幣局が発行しても品質管理が行き届かないため完成品は見劣りがしたという。 じつはボールトンは当初、小物製作の延長として1780年代半ばにプレス加工に着目。あわせてコーンウォール地方の銅山の株を持っており、さらに銅山が買い手のない粗銅を持て余すと買い取っていたことから、材料の在庫も潤沢であった。それでも、私製銅貨が出回った当初は注文が入っても断ったのである。「特定のだれかを槍玉にあげるつもりはないが硬貨の私製には断固反対であり、バーミンガムで私製硬貨をうけおう業者をだまって見逃すわけにはいかない」。それでも1788年には業態の一環として「ソーホー貨幣製造所」を立ち上げ、1基当たり1分間に硬貨70枚から80枚製造する蒸気エンジン式の圧延装置8基を投入したのである。イギリス硬貨を発行する免許を取得するまで利益は伸び悩んだものの、製造開始からほどなくしてイギリス東インド会社がインドで使う硬貨を作り始める。 イギリス国内の貨幣問題はその後も解決されない。ボールトンが造幣局長官チャールズ・ジェンキンソン (のちに初代リヴァプール伯に叙任。ロバート・ジェンキンソン首相の父) に宛てた1789年4月14日付の書簡にはこう書いてある。 どの旅を振り返っても、改札口あるいはあらゆるところで受け取るつり銭のじつに3分の2は偽造硬貨でありました。日々、最も下層の製造業者が偽造しては流通させて悪貨は増え続け、貧しい従業員に払うべき報酬の大半を偽造硬貨にすり替えている現状であります。本来なら36シリング(額面価格)分の銅貨を後ろ暗い製造業者から20シリングで買うのでは、不正行為の利益は尋常ではありえないと拝察します」 ボールトンは「国王陛下の造幣所にて正規の銅貨発行に費やす経費の半額にて、新しい硬貨を打って差し上げます」と申し入れている。友人のサー・ジョセフ・バンクスに宛てた手紙で自分の提案がいかに優れているか説明した。 わが社の機械は高性能、操作は簡単、管理に人手がいらず、経費を削減。品質の面でも貨幣製造に用いられた従来の機械と比べて仕上がりがまことに美麗……原板もしくは圧延板は熟練工でなくても注意散漫でも金型に正確にすばやく設定。昼夜の別なく疲れ知らずで稼動し当番は小僧2組でじゅうぶん。係数装置付きでだれが操業してもごまかすことは不可能。表・裏の模様、側面を同時に圧印。。模様の「背景」の輝きは他社の製造機には達成不可能。硬貨は誤差なく既定の寸法にしあがり端まで正確な同心で真円に圧穿、他社製品では到達できない。 ロンドンで粘り強く議会にロビー活動をしてイギリス硬貨製造の契約を取り付けようとしたボールトンだが、1790年6月、ピット政府は無期限に改鋳の決定を延期した。そのあいだソーホー貨幣製造所は東インド会社やシエラレオネ会社、ロシアから大量の硬貨を受注し、並行して国内では王立造幣局に高品位の地金を供給している。アメリカ向けにも現地フィラデルフィアの造幣局が打印する100分の1ドル硬貨(英語版)と純銅硬貨(英語版)の地金200万枚超分を納品、造幣局長官エリアス・ブーディノットは「徹底的に磨き上げた完璧さ」と評している。技術力で群を抜くボールトンの貨幣製造所は羨望の的になる一方で反感を買い、同業者が企業スパイをしかけたり議会に操業停止を訴えたり、好ましくない声があがり始めた。 1797年2月にイングランド銀行が紙幣の兌換を停止するとイギリスの経済状況はどん底を見る。政府は貨幣の流通量を増やすため大量の硬貨を発行する策を採用、ロバート・ジェンキンソン首相は3月にボールトンをロンドンに呼び出し政府の計画を伝える。4日後ボールトンは枢密院の会議に出席させられ、その月末、政府から貨幣発行の契約を取り付ける。1797年7月26日の布告によるとジョージ3世は「現況の緊急性に鑑み、わが指示により銅貨の即時供給がなされ得ること、重労働にあえぐ貧者への支払いに当てる最善の策に資するであろうことは喜ばしく……この政策を実行し1ペニー、2ペンスなりとも発行することを希望する」と述べたという。この王命により銅貨の額面と品位を近づけるため、重量はそれぞれ1オンス、2オンスとする制約が加えられる。ボールトンの偽造対策とはデザインをドイツのコンラッド・ハインリッヒ・キュヒラーに依頼し、高くした縁の内側に極印または文字と数字を打刻、偽造しにくくしたのである。2ペンス銅貨(英語版)の直径は正確に1インチ半、16枚を一列に並べると2フィート。重量と直径がきちんと揃ったため、重量の軽い偽造品が見分けやすくなった。キュヒラーは同じ比率でハーフペニー銅貨と青銅貨(英語版) fathings をデザインし、青銅貨は模様の打印までしながら認可を受けられず、とうとう公式に流通しないままに終わった。ハーフペニー銅貨の直径は10枚並べると1フィート、青銅貨は12枚で1フィート、ハーフペニー銅貨は大きさと縁の太さから「車輪」と呼ばれ、青銅貨もニックネームは「車輪」である。1ペニー硬貨はこの値で登場した初の銅貨であった。ところが、新硬貨の発行から1ヶ月もたたないうちに鉛に銅をかぶせた偽造硬貨が出回り、ボールトンはひどく悔しがったという。 車輪の2ペニー硬貨が発行されたのはこのとき一度きりである。製造技術が難しかったことに加え、実用には重すぎたこと、銅が値上がしたことから1800年に市場から回収、溶解した。1799年と1806年にもボールトンは小額の銅貨3種の製造契約を受ける。1799年製造分のみ以前の車輪のデザインを採用 (ただし発行年は1797年と打刻) 、その他の年の製造分は地金を軽くして銅の値上がりに対処するとともにデザインも簡素化している。偽造問題の対策としてボールトンは銅貨の周囲に線を刻み、地金をわずかにふくらませる。偽造はボールトンが手がける硬貨ではなく標的を変え、依然として市場に流通する古い硬貨を模造するものの、1814年から1817年にかけて古い硬貨はだんだん回収されていく。 ボールトンが1809年に亡くなると、ワットは弔辞でこう述べている。 一言で申し上げるとすれば、ボールトン氏の最大の偉業は造幣技術の革新を図ったことにほかありません。これに加えて本業を幅広い分野に発展させた人物として――たとえ十分な利益を上げられるかどうか見通しが立たなくとも果敢に取り組んだ事業は数知れず――氏の忍耐強さと巨額の資金を投入した気前の良さは他者にはとうてい足元によることすらできないのであります。利益優先の一個人の事業主ではなく、まるで王族のように民に利するため事業を取り仕切り、金銭的利益よりも名誉を重んじた氏でありました。実業家として十分に称えられるべき生涯であり、その名声は永く語り継がれるでありましょう
※この「正規の硬貨と私製銅貨」の解説は、「マシュー・ボールトン」の解説の一部です。
「正規の硬貨と私製銅貨」を含む「マシュー・ボールトン」の記事については、「マシュー・ボールトン」の概要を参照ください。
- 正規の硬貨と私製銅貨のページへのリンク