条件馬時代(2歳8月 - 3歳9月)
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2001年8月11日、小倉競馬場の新馬戦(芝1200メートル)でデビューし7着。騎乗した角田が「もう少し距離が延びていいタイプ」と評したが、その後3戦1200メートルの未勝利戦に臨み、いずれも着外となる。5戦目からは、距離を伸ばして1800メートルから2000メートルに出走。5戦目で初入着、6戦目で初連対を果たした。7戦目と8戦目の間は、橈骨の骨膜炎のため5か月間の休養もあった。初連対から3連敗を経験して臨んだ10戦目、2002年5月26日の未勝利戦(芝2000メートル)にて、後方に3馬身差をつけて初勝利を挙げた。 その後は、条件戦に5回出走してすべて3着以内、500万円以下と1000万円以下を勝利して出世する。500万円以下は、初戦のぶっぽうそう特別でハナ差の2着。続く6月2日の売布特別で、後方に5馬身差をつけて2勝目を挙げ、2戦で突破。1000万円以下は、2度の3着を経て、9月8日の野分特別で半馬身差をつけて3勝目を挙げ、3戦で突破した。この野分特別の勝利を機に佐山は、目標を菊花賞出走に定めるようになった。9月22日、菊花賞のトライアル競走である神戸新聞杯(GII)7番人気で、重賞初出走。スタートから後方を追走し、直線は大外に持ち出すも伸びず6着。上位3頭までに与えられる菊花賞の優先出走権を得ることができなかった。
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条件馬時代
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1996年の9月末、栗東トレーニングセンターの池江泰郎厩舎に入厩。池江はステイゴールドの担当厩務員に1980年の秋に熊本県の荒尾競馬場から中央競馬に移籍して以降、池江厩舎のスタッフとして働き続けていた山元重治を指名した。入厩当時のステイゴールドについて、山元は次のように回想している。 テキ(池江のこと)からは『ギロギロッとした目つきの、ちょっと元気のいい馬だ』と聞かされていたけど、本当にその通りだった。普通の馬とは眼光が全然違ったものね。いつも目をバチーンと見開いて、隙あらば暴れようとする。最初に来たときから引退するまでずっと、人間に対して"俺は強いんだ"と誇示するところがあったな — 石田2014、20頁。 山元によると、栗東トレーニングセンターの馬場で初めて調教を行った日、10回も20回も立ち上がった挙句にステイゴールドに騎乗していた調教助手が降参したかのように馬のお尻から下馬したという。しかし、坂路コースでの調教では好時計をマークしていたため、陣営の期待を膨らませた。 1996年12月1日、阪神競馬場で開催された芝2000mの新馬戦でオリビエ・ペリエを鞍上にデビュー。スタートで後手を引きながら出走馬中最速タイの上りタイムを記録して3着に入線した。2戦目は前走と同じく阪神の芝2000m戦に出走。単勝オッズは2.2倍の一番人気に支持されたものの、右前脚に骨膜炎を生じて戦意を喪失し最下位となったため、いったん休養に入る。 翌1997年2月のダートの未勝利戦で復帰し、このレースでは以後長く主戦騎手を務める熊沢重文が手綱を取った。立ち遅れ気味にスタートし、道中は中団を追走。ところが、ポジションを押し上げにかかった最終コーナーをステイゴールドは曲がろうとせず、大きく外に逸走したうえで身を翻して熊沢を振り落としたため競走を中止、競走後にはJRAより調教再審査を通告された。このレース以降熊沢は毎日のようにステイゴールドの調教に跨るようになり、陣営はハミを制御力の強いものに変えるなど左へ斜行しようとする癖の矯正に努める。こうした工夫が実り、ステイゴールドは前走の逸走によって課されていた調教再審査を一発でクリアし、再審査処分明けの一戦ではクビ差の2着、続くレースも2着に敗れた後の通算6戦目、5月11日に東京競馬場で開催された芝2400mの未勝利戦で初勝利を挙げた。このレースでは早め先頭で立った直線でふらついたものの、一週間前に同じコースで行われていた青葉賞(優勝馬トキオエクセレント)より0秒8速い勝ちタイムを記録した。 初勝利後に出走したすいれん賞では馬群の最内を突いて鋭く抜け出し連勝、次走のやまゆりステークスの4着を挟み、札幌競馬場に転戦した阿寒湖特別では3コーナーからのひとまくりで初めての対戦となった古馬勢を相手に勝利を収めた。この2勝を加え、陣営は秋の目標を3歳クラシック三冠最終戦の菊花賞に据えた。10月に重賞初挑戦となる京都新聞杯(菊花賞トライアル)に出走したが4着となり、3着までに与えられた優先出走権を逃す。菊花賞には獲得賞金上位に回避馬が出たことで出走を果たしたが、当日は10番人気と評価は低く、結果もマチカネフクキタルの8着に終わった。年末には準オープン競走のゴールデンホイップトロフィーで2着となり、当年は3勝のみでシーズンを終えた。最終戦は抽選で騎手が選ばれるワールドスーパージョッキーズシリーズの一競走であり、抽選で当たったのは後にステイゴールドと共に重賞3勝を挙げる武豊だった。武はこの時初めてステイゴールドへの騎乗が決まった当時の心境について、以下のように語っている。 もちろん、その前からちょっと気になる馬ではあったわけですよ。ここ一番で声をかけてくださる池江厩舎の馬ということもありますから、いつか乗せてもらえるんじゃないかと、そういう可能性も考えるわけです。当たったときですか?そりゃあもちろん「やった!」という気持ちです。結果的に2着に負けてしまうんですが、勝つのはこの馬だろうと見当をつけていましたからね。 — ステイゴールド永遠の黄金、36頁。 しかし、武によれば本馬に対する第一印象は「とにかく気が悪い馬だな」というものであり、このレースでのステイゴールドについて「2コーナーで、外から併せてきた馬にガーッと噛みつきに行ったんですからね。若い馬にたまにいることはいるんですが、菊花賞にも出たほどの馬がそんなことをするとは思いませんよ。なんか、常に怒って走っているような、そういう意味では競走に対する集中力が全然できていない馬でした」と述べているが、「でもいま考えると、やっぱりあの馬とは縁があったんですよね」と語っている。 翌1998年も緒戦の万葉ステークス、松籟ステークスを連続で2着と惜敗を続けていたが、次走の重賞・ダイヤモンドステークスで2着に入線したことから、獲得賞金規定によりオープンクラスに昇格。続く日経賞での4着を経てGI戦線に出走を始めた。
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条件馬時代
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美浦トレーニングセンターの矢野進厩舎に入り、1982年7月の新潟開催でデビュー。本開催デビュー馬の筆頭格と目されていたプロメイドを破って初戦勝利を挙げた。矢野は翌年の4歳クラシックへの期待を寄せたが、しかしその後は「精神面と肉体的成長のバランスがあわ」ず(社台ファーム早来場長・吉田勝己)、伸び悩む。2勝目を挙げたのは5歳となった1984年1月のダート競走で、以後しばしダートを主体に使われる。4月に中山で3勝目、5月には東京で1600メートルを1分35秒5のレコードタイムで4勝目を挙げ、夏には北海道開催で2連勝を挙げた。 6歳となった1986年からは重賞に顔を出しはじめ、2月のダート重賞・フェブラリーハンデキャップで2着。春には芝の重賞・京王杯スプリングカップでも3着となり、GI・安田記念で5着と健闘した。充実期に入ったとみた陣営は、夏に得意のダートで態勢を整えたのち、順調ならば年末の有馬記念を最大目標とする計画を立てた。 安田記念の次走に出走した札幌日経賞ではスタートでバランスを崩して騎手の東信二が落馬。そのまま馬群について走ったギャロップダイナは、最終コーナーで逃げ馬に並びかけると、デリンジャーアモンに1馬身半の差をつけ、レコードを0.2秒上回る推定1分49秒9というタイムでゴールを通過。落馬のため、正式な結果は「競走中止」ではあったが、「カラ馬が1着」と話題をまいた。続く道新杯では改めてレコードタイムで走破しての7勝目を挙げると、続く2戦を連続で2着とした。その後、矢野はギャロップダイナを自己条件戦の府中ステークスへ回すことを考えていたが、社台ファーム総帥・吉田善哉が急遽天皇賞(秋)への出走を決定。「チャンスさえ与えれば花開く可能性がある。それがノーザンテーストの血だ」というのがその言であった。一方、この競走で手綱をとる根本康広によれば、「シンボリがルドルフを出してきた。それならダイナも何か出そう」という事情であったという。
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