時代の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 08:19 UTC 版)
大正時代は明治と昭和に挟まれ、15年と短いながらも国内外が激動の時代で、大正文化という独自の文化が花開いた時期であった。日本では2度の戦勝(日清・日露)を経て帝国主義の国として欧米列強と肩を並べ「五大国」の1国ともなり、これらの国から誘われ第一次世界大戦にも参戦、勝利の側につき国中が国威の発揚に沸いた時代である。 西欧先進国の産業革命からの影響を受けて、明治の45年間をかけて国内での工業化も進み経済は着実な発展を遂げ、流通や商業が飛躍的に進歩した。鉄道網の形成や汽船による水運が発達、これと並行して徐々に町や都市の基盤が形作られ、さらに大正に入ってからは近郊鉄道の敷設、道路網の拡大や自動車・乗り合いバスなどの都市内交通手段の発展により都市化が促進された。録音や活動写真の出現、電報・電話技術の発達、そして新しい印刷技法による大衆向け新聞・書籍・雑誌の普及など、これらの新しいメディアによって文化・情報の伝播も拡大的に飛躍した。 戦勝による債務国から債権国家への転換により経済は爆発的に拡大し、明治以降の経済の自由化とともに商人の立場が向上した。欧米から学んだ会社制度が発達し、制度上は個人商店であった私企業が発展していく中で世界に向けて大規模化していく。また通貨の円の国際化と旺盛な日本市場を狙って、ウェスティングハウス・エレクトリックやユニバーサル・ピクチャーズ、フォード・モーターなど、欧米企業の進出が相次いだ。 第一次世界大戦で南洋諸島などが手に入り、それらの地の開拓も進められた。主要な戦地であった欧州に代わり造船受注が拡大、この時期に長崎や神戸などに現代にまで続く重工業企業の基盤が形成された。大戦景気や投機の成功で「成金」と呼ばれるような個人も現れ、立身出世の野望が実業の方面に向かっても開かれた。 中流層には「大正デモクラシー(民本主義)」が台頭し、一般民衆と女性の地位向上に目が向けられ、西洋文化の影響を受けた新しい文芸・絵画・音楽・演劇などの芸術が流布して、思想的にも自由と開放・躍動の気分が横溢し、都市を中心とする輸入物愛好、大衆文化や消費文化が花開いた。 しかし、時代の後半に入ると大戦後の恐慌や関東大震災もあり、経済の激しい浮き沈みや新時代への急激な変化に対応できないストレスも顕在化してくる。都市化と工業化は膨大な労働者階級を生み出し、国外の社会変革を求める政治運動に呼応した社会主義運動が大きなうねりとなって支配層を脅かした。スペイン風邪の流行や未だ克服されなかった肺結核による著名人の死も時代に暗い影を落とした。知識人においては個人主義・理想主義が強く意識され、新時代への飛躍に心躍らせながらも、同時に社会不安に通底するアンビバレントな葛藤や心理的摩擦もあった。昭和の時代にかけて、自由恋愛の流行による心中・自殺や、作家や芸術家の間に薬物や自傷による自殺が流行するのも、この頃からである。 大衆紙の流布とともにそれらの情報が増幅して伝えられ、時代の不安の上にある種の退廃的かつ虚無的な気分も醸し出された。むしろこれらの事々のほうが「大正浪漫」に叙情性や負の彩りを添えて、人々をさらに蠱惑する側面もある。この背景には、19世紀後半にヨーロッパで興った耽美主義やダダイスム、デカダンス等の影響も伺える。芸術活動には大正期新興美術運動が起こり、アール・ヌーボーやアール・デコ、表現主義など世紀末芸術から影響を受けたものも多い。あるいは政治思想である共産主義、アナキズムなどの「危険思想」が取り締られ社会主義思想にも圧迫が加えられた。いっぽう、多くの地方の村落はまだまだ近代化に取り残されており、大正に至っても、明治初期と変わらない封建的な生活が残っていた。 「大正ロマン」は、新しい時代の萌芽を示す意味合いから、モダニズム(近代化)から派生した「大正モダン」という言葉と同列に扱われることもある。「大正モダン」と「大正ロマン」は同時代の表と裏を表象する対立の概念であろう。在位の短かった天皇の崩御により、震災復興などによる経済の閉塞感とともにこの時代は終わり、世界的大恐慌で始まる昭和の時代に移るが、大正モダンの流れは断絶することなく昭和モダンの時代へと引き継がれる。
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