時代の革命児「悪党」正成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 04:59 UTC 版)
「楠木正成」の記事における「時代の革命児「悪党」正成」の解説
戦後は、価値観の転換と歴史学における中世史の研究が進むと悪党としての性格が強調されるようになり、吉川英治は『私本太平記』の中で、戦前までのイメージとは異なる正成像を描いている。 鎌倉時代末期〜南北朝時代における「悪党」とは「わるもの」という意味ではなく、強大な経済力と武力を背景に、旧体制である荘園領主・幕府に反抗した新興勢力のことである(よって、山僧や神人など「邪悪」ではない者も「悪党」には含まれる)。鎌倉時代末期〜南北朝時代は社会の下部構造である民衆が初めて歴史の表舞台に台頭した時期であり、その下部構造から生じた悪党はこの世代の社会を牽引した、時代の主役であった。公家や武家といった旧時代の支配者たちは「血」を重視し血縁組織を作り上げたが、楠木正成ら交通の要衝路に住む悪党は「地」という革命的な概念を持ち込んで地縁組織を支配した。正成は「摂津〜河内〜和泉〜大和〜伊賀〜伊勢」という通商ラインを抑えたことで、六波羅探題と鎌倉幕府の連携を分断することに成功し、当初数百倍の戦力差があった元弘の乱に戦略的勝利を収めた。権威を盲信するのではなく、知恵と新しい発想をもって時代を切り開く、いわば時代の異端児・革命児としての楠木正成像である。 ただし、「悪党」を「社会の秩序を乱す者ないし悪事をなす集団」と誤解で一般的語彙に解釈されて問題となることもあり、NHKのテレビ番組『堂々日本史』において「建武新政破れ、悪党楠木正成自刃す」というタイトルで放送された際、湊川神社がNHKに抗議する事件が起きている。
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