国威の発揚
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/21 08:27 UTC 版)
「モハンマド・レザー・パフラヴィー」の記事における「国威の発揚」の解説
モハンマドはさらに自らの称号を「アーリア人の栄光」を意味する「アーリヤー・メヘル」と定め、1971年には古代のアケメネス朝ペルシア帝国の遺跡ペルセポリスでイラン建国二千五百年祭典を開催し、イラン人の民族意識を鼓舞する「イラン・ナショナリズム」をイランの新たなイデオロギーに据えることを目標にした。この行事には多数の国賓が出席し、エチオピア帝国のハイレ・セラシエ皇帝や、日本の皇族で古代オリエント史学者の三笠宮崇仁親王等といった世界各国の王族だけでなく、西側諸国・東側諸国・非同盟諸国の首脳なども招いた盛大な式典だった。 同時にキュロス2世が紀元前539年に新バビロニアを滅ぼした際、バビロン捕囚からユダヤ人などの諸民族を解放し、各々の故郷に戻して彼らの神殿を再建したと記録されているキュロスの円筒印章(キュロス・シリンダー)の複製(現物は大英博物館蔵)を、「世界初の人権宣言」として国際連合に贈呈した。 またモハンマドは、この行事を記念して首都テヘランに「シャーの栄光」を意味するシャーヤード・タワーと、その南にあるレイという町に先代の皇帝である父親レザー・シャーの霊廟を建設した。なお、シャーヤード・タワーは革命を期に「自由」の名を冠したアーザーディー・タワーと名称を変えられた。現在レザー・シャー霊廟は跡形もなく破壊され、跡地はイスラム教の神学校になっている。 同年より従来のジャラーリー暦に代わって帝国暦を採用、キュロス2世がメディアを滅ぼしてアケメネス朝を起こした紀元前550年をキュロス紀元とした。しかし1979年の革命の後、イスラム共和制の成立によりヒジュラ紀元のジャラーリー暦に改定された。 しかしこの一連の事業に投じられた費用は2億ドル以上にも及んだとされ、反体制的なイスラム法学者をはじめとする諸方面から、国費の浪費である、などの批判が多くなされた。ちなみにフランス在住のイラン人漫画家マルジャン・サトラピは、著書『ペルセポリス』でこの式典について言及している。
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