人事と国内政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/26 04:21 UTC 版)
大院君は、勢威をふるっていた安東金氏と老論派を抑えるとともに、北人と南人から多くの人物を登用した。また、備辺司の権能を外交・防衛・治安維持に限定し、1865年にはこれを議政府に統合、議政府に再び最高行政官庁の地位をあたえた。軍政機関として三軍府を設置し、堂上として多くの武臣を取り立てた。さらに、王族の官庁であった宗親府の改組もおこない、従二品以上の璿派人(王族全州李氏)の官僚が就任する新しい官職を用意した。『大典会通』を編纂するなど法整備もおこなった。こうして、興宣大院君は弱小党派や武臣、璿派を重用して自身の勢力基盤拡大を図った。 興宣大院君は、文禄・慶長の役(壬辰倭乱)の際に焼失したとされる景福宮を約270年ぶりに再建して国威の発揚と王室権威の向上をはかり、そのための財源として「願納銭」を徴収した。また、江華島防衛のために「沁都砲糧米」を新設した。大院君政権はこのように大土木事業や軍備強化に力を注ぎ、上記のほか、悪貨である当百銭を発行したり、首都漢城(現、ソウル特別市)の城門を通過する人に通行税を課すなどして、これを財源にあてた。しかし、これらの負担は民衆の生活をいちじるしく悪化させたので大院君政権への不満は高まった。 1864年から1871年にかけては書院(私塾)の廃止が推進され、最終的には「賜額書院」と称される格式高い書院47か所をのぞくすべてが廃止された。これは、書院に所属していた土地や良民を課税対象として国家に編入し、いっそうの財源拡張をはかるとともに、書院を拠点とする地方の両班の勢力を抑え込もうという意図にもとづいていた。当時両班は、特権身分として地方に君臨し、農民を収奪し、横暴の限りをつくしていたのである。1871年には両班からも、その所有する奴の名義で軍布を徴収することが定められた。これを「班戸奴名出布法」という。
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