太田川
水の都の太田川 川の文化を伝えたい
(注:この情報は2008年2月現在のものです)
太田川は、広島県廿日市市(旧吉和村)の冠山にその源を発し、幾つもの渓流を合わせながら、広島市安佐北区可部で山峡の地を離れ、支川根谷川・三篠川合流後、南に流下し、デルタの要である大芝にて太田川(放水路)と旧太田川とに分派、さらに京橋川、天満川、元安川、猿猴川の計6本の川に分かれ、瀬戸内海に注ぐ幹川流路延長103km、流域1,710km2の河川です。 |
太田川と水の都広島 |
河川概要 |
| ○拡大図 |
1.太田川の歴史 |
"広島城下町は低平な三角州(デルタ)及び干拓地に位置するため、江戸時代より治水事業が実施され、「水越の策」や「川ざらえ」等のハード的な治水事業の他、鉄穴流しを禁止、堤防取締令、量水標の設置等のが実施されました。中国地方の中心都市として発展している広島は、干拓と治水という水辺との関わりの中で築かれ、これら広島の歴史は、そのまま太田川の歴史につながっています。" |
2.地域の中の太田川 |
"太田川は、古くから川舟による輸送路として利用され、水辺に今も残る雁木は当時の荷揚場として往時の盛んだった舟運を物語っています。中流部に建設されている高瀬堰の貯水池より、広島市はもとより太田川流域外の水源に乏しい瀬戸内海の島しょ部まで送られています。また、毎年8月には市内各所において灯籠流しが行われるなど、周辺の原爆ドームや平和公園との景観にも調和しています。" |
太田川(おおたがわ)は、古くから川舟による輸送路として利用され、太田川(おおたがわ)上流からは木炭、鉄、紙などが運ばれ、材木は筏によって運搬されていました。それに併せ、船乗り、船大工、舟問屋などの職業も発達し、また、神田(かんだ)の渡し、ときはの渡しなど随所に渡し船が行き来していました。水辺に今も残る雁木(がんぎ)は当時の荷揚場として往時の盛んだった舟運を物語っています。江戸時代後期(1862)には川床が埋まり通船などに支障がでてきたために藩に願い出て町民の出資で川ざらえが行われた記録もあり、舟運によって発達していた当時の暮らしを伺い知ることができます。
太田川(おおたがわ)の豊富な水は、古くから農業用水、上水道用水、工業用水、水力発電などに利用されています。現在においては、中流部に建設されている高瀬堰(たかせぜき)の貯水池内に貯められた太田川(おおたがわ)の水は、広島市はもとより太田川(おおたがわ)流域外の水源に乏しい呉(くれ)市や瀬戸内海(せとないかい)の島しょ部まで送られ水道用水などに使われています。
太田川(おおたがわ)の利用について上流部は、西中国山地国定公園内にあり、一帯は自然景観美を誇り、中でも戸河内(とごうち)町にある三段峡(さんだんきょう)は国の特別名勝にも指定されています。また、平成13年度末に完成した温井(ぬくい)ダムはアーチ式ダムにおいては、富山(とやま)県の黒部(くろべ)ダムに次ぐ2番目の156mのダム高を誇り、年間30万人の方がスポーツや自然観察などに訪れています。 太田川(おおたがわ)中流部を流れる古川は、昔は太田川(おおたがわ)の本川として流れていました。支川となった今では市街地近くにありながら比較的自然も豊かな環境を活かし、多自然型川づくりを行っています。地域の方々の取り組みも盛んに行われ、年間を通じた清掃活動、夏には毎年、古川(ふるかわ)を舞台に「せせらぎの夕べ」と題したコンサートに併せお祭りが開催され大変賑わっています。下流部の広い河川空間は、地域の方々にとって手軽に自然とふれあえる場であり、一帯が魚釣り、水遊び、バードウォッチング等の場として親しまれている他、河口部は潮干狩りや魚釣りなどの身近なレクリエーション施設の場として、市民に深い愛着をもたれています。また、広島(ひろしま)に原爆が落ちた8月6日には、元安川(もとやすかわ)を始めとする市内各所において灯籠流しが行われるなど、人々が水と接することができるようになっており、周辺の原爆ドームや平和公園などとの景観にも調和しています。 |
4.太田川の主な災害 |
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(注:この情報は2008年2月現在のものです)
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