厚木飛行場に進駐とは? わかりやすく解説

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厚木飛行場に進駐

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 00:53 UTC 版)

ダグラス・マッカーサー」の記事における「厚木飛行場に進駐」の解説

1945年8月14日日本連合国対しポツダム宣言受諾通告した急逝したルーズベルトの後を継いだハリー・S・トルーマン大統領は、一度会ったとがないにも拘らずマッカーサーのことを毛嫌いしており、日本の降伏立ち会わせたのちに本国召還して、名誉ある退役をしてもらい、別の誰か日本占領任せようとも考えたが、アメリカ国民からの圧倒的人気や、連邦議会にも多くマッカーサー崇拝者がいたこともあり、全く気が進まなかったが以下の命令行った貴官をこれより連合国軍最高司令官任命する貴官日本の天皇政府帝国軍総司令部の、正当に承認され代表者たちに降伏署名文書要求し受理するために必要な手続き踏まれたい。 マッカーサーは、海軍ニミッツがその任に就くと半分諦めていたので、太平洋戦争中にずっと東京へ先陣争いをしてきたニミッツ最後に勝利したと、この任命大い喜んだマッカーサー日本への進駐に対しては、8月19日河辺虎四郎参謀次長全権とする使節団が、マッカーサー命令マニラまで緑十字飛行入念な打ち合わせが行われた。日本側は10日もらわない連合軍進駐受け入れ準備整わない訴えたが、応対したマッカーサー副官サザーランドからは、5日猶予し認められず、8月26日先遣隊進駐8月28日マッカーサー神奈川県厚木海軍飛行場進駐する告げられた。マッカーサー本人最後まで使節団と会うことはなかったが、これは自分天皇権威引き継ぐ人間になると考えており、自らそのようにふるまえば、日本人マッカーサーに対して天皇接するような態度をとるだろうと考えていたからであった進駐受入委員会代表者有末精三中将決定したが、肝心厚木には海軍航空隊第三〇二海軍航空隊司令小園安名大佐徹底抗戦宣言して取っており、マッカーサー搭乗機体当たりをすると広言していた(厚木航空隊事件)。8月19日小園マラリア高熱出て病床伏したのを見計らって[要文特定詳細情報]、8月22日高松宮宣仁親王厚木まで出向いて、残る航空隊士官将兵らを説得してようやく厚木飛行場解放された。しかし、解放され厚木飛行場に有末ら受入委員会乗り込むと、施設破壊され滑走路上には燃え残っている航空機散乱しているという惨状であった。すでに軍の組織崩壊しており、厚木飛行場将兵近隣住民中でも降伏に不満を抱いている者も多く、有末の命令まともに聞く者はいなかったので、仕方なく海軍の工廠員を食事提供の条件滑走路整備に当たらせたが、作業遅々として進まず最後は1,000万円もの大金業者外注せざるを得なくなったその後マッカーサー司令部より、先遣隊28日マッカーサー本隊30日進駐延期するという知らせ届いたため、日本側はどうにか厚木飛行場整備間に合わせることができた。28日には予定通りマッカーサー信頼厚いチァーレス・テンチ大佐指揮官とする先遣隊輸送機厚木飛行場着地し、有末ら日本側とマッカーサー受け入れ準備行った。特に問題となったのは、厚木到着したマッカーサーらが当面宿舎となる横浜の「ホテルニューグランド」まで移動する輸送手段であった日本側に準備命じられたが、空襲での破壊により、まともに使い物になる乗用車があまり残っておらず、日本側はどうにか50台をかき集めたが、中には木炭車やら旧式トラック含まれており、先導車は消防車であった。それでも、マッカーサー司令部幕僚には自決した阿南惟幾陸軍大臣公用車であったリンカーン・コンチネンタルを含む、閣僚らの高級公用車準備されたが、8月29日までにそれら高級車全て先遣隊アメリカ軍将兵盗難されてしまった。困惑した有末がテンチうったえたところ、テンチは即対応して8月30日午前4時までにすべての公用車取り戻した8月29日沖縄到着したマッカーサーは、8月30日の朝に専用機バターン号」で厚木向けて5時間飛行開始したマッカーサー先立ちアメリカ軍11空挺師団の4,000人の兵士厚木乗り込み護衛しているとは言え、つい先日まで徹底抗戦をとなえていた多数敵兵待ち受ける敵本土に、わずかな軍勢乗り込むのは危険だという幕僚主張もあったが、マッカーサー日露戦争後父親アーサー副官として来日したときの経験により、天皇の命で降伏した日本軍兵士反乱を起こすわけがない確信していた。マッカーサー少数軍勢により、空路厚木乗り込むことを望んだのは、海兵隊大部隊を率いて日本本土上陸目指し急行している、ハルゼー海軍との先陣争いに勝つためと、この戦争マッカーサー勇気を示す最後機会になると考えたからであった。それでも、飛行中落ち着きなく、バターン号機内通路行ったり来たりしながら思いつくことを副官コートニー・ホイットニー少将書き取らせて強調したい箇所ではコーンパイプ振り回した。それでもしばらくすると座席座ってうたた寝したが、バターン号富士山上空到達すると、ホイットニーマッカーサー起こしたマッカーサー富士山を見下ろす感嘆して「ああ、なつかし富士山だ、きれいだコートニー」とホイットニー語り掛けたが、その後再び睡眠入った14時05分に予定よりも1時間早くバターン号厚木到着した事前に日本側は政府要人による出迎え打診したが、マッカーサーはそれを断って日本側は新聞記者10名だけの出迎え列席認められており、マッカーサー動作は常に記者意識したものとなったマッカーサータラップ踏み出すとすぐには下りず、180度周囲ゆっくりと見回したあとで、その後タラップ下って厚木の地に降り立った。これは新聞記者撮影意識したものと思われ、後に、マッカーサーはこの時に撮影され写真を、出版した自伝見開き2ページ使って掲載している。日本の新聞記者にも強い印象与えて同盟通信社明峰嘉夫記者は「歌舞伎役者五郎大見得切ったよう」と感じたという。マッカーサー記者団に対してバターン機内考えていた以下の第一声発したメルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍降伏予定通り進捗し外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍続々降伏している。この地区関東においては日本兵多数武装解かれそれぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する — 朝日新聞1945年8月31日) しかし、派手なことが好きなマッカーサーにしては珍しいことに、進駐初日の公式な動きはこの短い声明のみであり、日本マスコミ扱い意外に小さく朝日新聞マッカーサー来日記事一面ですらなく、紙面中央ぐらいで、マッカーサー大見得を切りながらタラップ降りた写真掲載されなかった。

※この「厚木飛行場に進駐」の解説は、「ダグラス・マッカーサー」の解説の一部です。
「厚木飛行場に進駐」を含む「ダグラス・マッカーサー」の記事については、「ダグラス・マッカーサー」の概要を参照ください。

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