厚木飛行場に進駐
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「ダグラス・マッカーサー」の記事における「厚木飛行場に進駐」の解説
1945年8月14日に日本は連合国に対し、ポツダム宣言の受諾を通告した。急逝したルーズベルトの後を継いだハリー・S・トルーマン大統領は、一度も会ったことがないにも拘らずマッカーサーのことを毛嫌いしており、日本の降伏に立ち会わせたのちに本国に召還して、名誉ある退役をしてもらい、別の誰かに日本占領を任せようとも考えたが、アメリカ国民からの圧倒的人気や、連邦議会にも多くのマッカーサー崇拝者がいたこともあり、全く気が進まなかったが以下の命令を行った。 貴官をこれより連合国軍最高司令官 に任命する。貴官は日本の天皇、政府、帝国軍総司令部の、正当に承認された代表者たちに降伏署名文書を要求し、受理するために必要な手続きを踏まれたい。 マッカーサーは、海軍のニミッツがその任に就くと半分諦めていたので、太平洋戦争中にずっと東京への先陣争いをしてきたニミッツに最後に勝利したと、この任命を大いに喜んだ。 マッカーサーの日本への進駐に対しては、8月19日に河辺虎四郎参謀次長を全権とする使節団が、マッカーサーの命令でマニラまで緑十字飛行し入念な打ち合わせが行われた。日本側は10日もらわないと連合軍の進駐を受け入れる準備は整わないと訴えたが、応対したマッカーサーの副官サザーランドからは、5日の猶予しか認められず、8月26日先遣隊進駐、8月28日にマッカーサーが神奈川県の厚木海軍飛行場に進駐すると告げられた。マッカーサー本人は最後まで使節団と会うことはなかったが、これは自分が天皇の権威を引き継ぐ人間になると考えており、自らそのようにふるまえば、日本人がマッカーサーに対して天皇に接するような態度をとるだろうと考えていたからであった。進駐受入委員会の代表者は有末精三中将に決定したが、肝心の厚木には海軍航空隊第三〇二海軍航空隊司令の小園安名大佐が徹底抗戦を宣言して陣取っており、マッカーサーの搭乗機に体当たりをすると広言していた(厚木航空隊事件)。8月19日に小園がマラリアで高熱が出て病床に伏したのを見計らって[要文献特定詳細情報]、8月22日に高松宮宣仁親王が厚木まで出向いて、残る航空隊の士官、将兵らを説得してようやく厚木飛行場は解放された。しかし、解放された厚木飛行場に有末ら受入委員会が乗り込むと、施設は破壊され、滑走路上には燃え残っている航空機が散乱しているという惨状であった。すでに軍の組織は崩壊しており、厚木飛行場の将兵や近隣住民の中でも降伏に不満を抱いている者も多く、有末の命令をまともに聞く者はいなかったので、仕方なく、海軍の工廠員を食事提供の条件で滑走路整備に当たらせたが、作業は遅々として進まず、最後は1,000万円もの大金で業者に外注せざるを得なくなった。 その後、マッカーサー司令部より、先遣隊が28日、マッカーサー本隊が30日に進駐を延期するという知らせが届いたため、日本側はどうにか厚木飛行場の整備を間に合わせることができた。28日には予定通りにマッカーサーの信頼厚いチァーレス・テンチ大佐を指揮官とする先遣隊が輸送機で厚木飛行場に着地し、有末ら日本側とマッカーサー受け入れの準備を行った。特に問題となったのは、厚木に到着したマッカーサーらが当面の宿舎となる横浜の「ホテルニューグランド」まで移動する輸送手段であった。日本側に準備が命じられたが、空襲での破壊により、まともに使い物になる乗用車があまり残っておらず、日本側はどうにか50台をかき集めたが、中には木炭車やら旧式のトラックが含まれており、先導車は消防車であった。それでも、マッカーサーら司令部幕僚には自決した阿南惟幾陸軍大臣の公用車であったリンカーン・コンチネンタルを含む、閣僚らの高級公用車が準備されたが、8月29日までにそれら高級車は全て先遣隊のアメリカ軍将兵に盗難されてしまった。困惑した有末がテンチにうったえたところ、テンチは即対応して8月30日の午前4時までにすべての公用車を取り戻した。 8月29日に沖縄に到着したマッカーサーは、8月30日の朝に専用機「バターン号」で厚木に向けて5時間の飛行を開始した。マッカーサーに先立ちアメリカ軍第11空挺師団の4,000人の兵士が厚木に乗り込み護衛しているとは言え、つい先日まで徹底抗戦をとなえていた多数の敵兵が待ち受ける敵本土に、わずかな軍勢で乗り込むのは危険だという幕僚の主張もあったが、マッカーサーは日露戦争後に父親アーサーの副官として来日したときの経験により、天皇の命で降伏した日本軍兵士が反乱を起こすわけがないと確信していた。マッカーサーが少数の軍勢により、空路で厚木に乗り込むことを望んだのは、海兵隊の大部隊を率いて日本本土上陸を目指して急行している、ハルゼーら海軍との先陣争いに勝つためと、この戦争でマッカーサーの勇気を示す最後の機会になると考えたからであった。それでも、飛行中は落ち着きなく、バターン号の機内通路を行ったり来たりしながら、思いつくことを副官のコートニー・ホイットニー少将に書き取らせて、強調したい箇所ではコーンパイプを振り回した。それでもしばらくすると座席に座ってうたた寝したが、バターン号が富士山上空に到達すると、ホイットニーがマッカーサーを起こした。マッカーサーは富士山を見下ろすと感嘆して「ああ、なつかしい富士山だ、きれいだなコートニー」とホイットニーに語り掛けたが、その後再び睡眠に入った。 14時05分に予定よりも1時間早くバターン号は厚木に到着した。事前に日本側は政府要人による出迎えを打診したが、マッカーサーはそれを断って、日本側は新聞記者10名だけの出迎え列席が認められており、マッカーサーの動作は常に記者を意識したものとなった。マッカーサーはタラップに踏み出すとすぐには下りず、180度周囲をゆっくりと見回したあとで、その後にタラップを下って厚木の地に降り立った。これは新聞記者の撮影を意識したものと思われ、後に、マッカーサーはこの時に撮影された写真を、出版した自伝に見開き2ページを使って掲載している。日本の新聞記者にも強い印象を与えて、同盟通信社の明峰嘉夫記者は「歌舞伎役者の菊五郎が大見得を切ったよう」と感じたという。マッカーサーは記者団に対して、バターン機内で考えていた以下の第一声を発した。 メルボルンから東京までは長い道のりだった。長い長い困難な道だった。しかしこれで万事終わったようだ。各地域における日本軍の降伏は予定通り進捗し、外郭地区においても戦闘はほとんど終熄し、日本軍は続々降伏している。この地区(関東)においては日本兵多数が武装を解かれ、それぞれ復員をみた。日本側は非常に誠意を以てことに当たっているやうで、報復や不必要な流血の惨を見ることなく無事完了するであらうことを期待する — 朝日新聞(1945年8月31日) しかし、派手なことが好きなマッカーサーにしては珍しいことに、進駐初日の公式な動きはこの短い声明のみであり、日本のマスコミの扱いも意外に小さく、朝日新聞はマッカーサー来日の記事は一面ですらなく、紙面の中央ぐらいで、マッカーサーが大見得を切りながらタラップを降りた写真も掲載されなかった。
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