北アフリカ戦線・ヨーロッパ戦線
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「M4中戦車」の記事における「北アフリカ戦線・ヨーロッパ戦線」の解説
第二次世界大戦の連合国の主力戦車で、アメリカの高い工業力で大量生産された。生産に携わった主要企業は11社にも及び、1945年までに全車種で49,234輌を生産した。各生産拠点に適したエンジン形式や生産方法を採る形で並行生産させたため、多くのバリエーションを持つが、構成部品を統一して互換性を持たせることにより高い信頼性や良好な運用効率が保たれていた。 M4が最初に戦闘に投入されたのは、北アフリカ戦線のエル・アラメインの戦いであった。アメリカ軍の機甲師団を投入しようという計画もあったが、補給の問題もあってレンドリースという形式でイギリス軍に送られたものであった。エルアラメインに送られたM4は初期型のM4A1、M4A2であったが、50mm 60口径砲搭載のIII号戦車が主力のドイツアフリカ軍団にはM4は難敵であり、ドイツ軍戦車は一方的に撃破された。特にM4が猛威を振るったのが75mmの榴弾による88mm砲への攻撃であり、今までのイギリス軍戦車にはなかった破壊力で、次々と88mm砲を撃破したことがドイツ軍の致命的な痛手となり、イギリス軍の勝利に大きく貢献した。 しかし、その後のカセリーヌ峠の戦いでティーガーIと戦ったアメリカ軍のM4は、アメリカ軍戦車兵が戦車戦に不慣れなこともあって苦戦し、アメリカ軍はM3中戦車とM3軽戦車も含めて183輌の戦車を失っている。アメリカ軍はティーガーIの脅威を知ると共に、ソ連からV号戦車パンターの情報を仕入れていたが、どちらの戦車も接触頻度が稀であったので、少数が配備される重戦車であると誤った認識をして、既に決定していた76.2㎜砲を搭載する以上の対策をとることはなかった。一方で、イギリス軍はM4の対戦車能力向上のため、アメリカ軍の76.2mm砲よりは強力な17ポンド(76.2mm)対戦車砲を搭載したシャーマン ファイアフライの開発を行っている。 アメリカ軍の分析とは異なり、ノルマンディー上陸作戦からのフランスでの戦いで、M4とパンターやティーガーIとの交戦頻度は高く、75mm砲搭載型はおろか76.2mm砲搭載型も非力さが明らかになった。東部戦線で経験を積んだ一部のドイツの戦車エースたちの活躍もあって、M4がドイツ軍戦車に一方的に撃破されたという印象も強く、とくにエルンスト・バルクマン親衛隊軍曹はパンターに乗って多数のM4を撃破したとされている。バルクマンの有名な逸話は、1944年7月27日にサン=ローからクータンセへ続く街道の曲がり角のところで、アメリカ軍のM4隊と交戦し、たった1輌で9輌のM4を撃破してアメリカ軍の進撃を足止めしたとされる、のちに『バルクマンコーナー』と称された活躍談であった。このような一部の限られた活躍談をもって、大戦中のアメリカ軍の証言では、1台のパンターに5台のM4で戦わなければならない、と徹底されていたと主張する者もいるが、それは単に大戦時のアメリカの戦車小隊が5両から編成されているからに過ぎない。また、『バルクマンコーナー』でのバルクマンの活躍談も、歴史研究家で多くの戦車戦記での著作があるスティーヴン・ザロガ(英語版)の調査によれば、アメリカ軍に該当する戦闘記録がないことが判明し、ドイツ軍のプロパガンダではなかったかとの指摘もある。 限られた活躍談での印象とは異なり、M4はパンターを相手にしても善戦している。ノルマンディの戦いにおけるサン マンヴュー ノレの攻防戦では、進撃してきた第12SS装甲師団のパンター12輛を、第2カナダ機甲旅団の9輛のM4シャーマン(一部がシャーマン ファイアフライ)が迎撃し、一方的にパンター7輛を撃破して撃退している。アラクールの戦い(英語版)においては、アメリカ軍第4機甲師団(英語版)がドイツ軍第5装甲軍に大損害を与えて勝利したが、なかでもクレイトン・エイブラムス中佐率いる第37戦車大隊は多数のパンターを撃破しており、1944年9月19日の戦闘では、巧みに地形を利用したM4シャーマンによって、待ち伏せ攻撃や追撃で11輌ものパンターを撃破して撃退している。第37戦車大隊は、アラクールの戦いで55輌のティーガーIとパンターを撃破して連合軍の勝利に貢献した。 アメリカ軍はパンターやティーガーIへの対策として、新型の高速徹甲弾の生産を強化した。この徹甲弾は、M4戦車隊に十分な量は行き届かなかったが、500mで208mmの垂直鋼板貫通力を示し、76.2mm砲搭載型M4の強力な武器となった。また、M4は信頼性・生産性など工業製品としての完成度は高く、大量の補充と整備性の良さ、高い稼働率によって、高価すぎて且つ複雑な構造のドイツ軍戦車を総合力で圧倒するようになり、ドイツ軍戦車兵が大量の消耗により次第に質が低下していったのに対して、アメリカ軍は熟練した戦車兵が増えて、M4がパンターを圧倒する戦闘も増えている。バルジの戦いにおいて、1944年12月24日に、フレヌー(フランス語版)に接近してきた第2装甲師団第2戦車連隊第2戦車中隊のアルフレッドハーゲシェイマー親衛隊大尉とフリッツ・ランガンケ親衛隊少尉が率いる11輌のパンターG型を、第3機甲師団(英語版)第32機甲旅団D中隊のM4シャーマン2輌が迎えうって、遠距離砲撃で6輌撃破し、2輌を損傷させて一旦撃退している。その後、ハーゲシェイマー隊は残った3輌のパンターで再度フレヌーを目指し、途中で接触したM5軽戦車1輌を撃破したものの、またM4シャーマンからの砲撃で1輌を撃破され、ハーゲシェイマー車も命中弾を受けて損傷している。一旦退却したドイツの戦車エースの1人でもあったランガンケは、命中弾を受けて自身のパンターが損傷していたため、フレヌー付近の森の中のくぼ地に身を潜めていたが、その後、監視任務からフレヌーに無警戒で帰還してきた他の部隊のM4シャーマン4輌を撃破して一矢報いている。翌12月25日にもノヴィルを巡る戦いにおいても、M4シャーマンがわずか45分間の間に、一方的にパンターG型を6輌撃破して、ドイツ軍の攻撃を撃退している。 バルジの戦いにおいて、最初の2週間でM4シャーマンはあらゆる原因によって320輌を喪失していたが、1,085輌が前線にあり、うち980輌が稼働状態とその抜群の信頼性を誇示していたのに対して、投入された415輌のパンターは、2週間で180輌が撃破され、残り235輌もまともに稼働していたのは45%の約100輌といった有様だった。結局は、正面からの撃ち合いではパンターに分があったが、生産性、整備性、耐久力などすべてを比較すると、M4シャーマンの方が優れていたという評価もある。1944年8月から1944年12月のバルジの戦いまでの間の、アメリカ軍の第3機甲師団と第4機甲師団の統計によれば、全98回の戦車戦のなかでパンターとM4シャーマンのみが直接戦った戦闘は29回であったが、その結果は下記の通りであった。 M4とパンターの直接交戦による撃破数攻守交戦数 交戦したM4の数撃破されたM4の数交戦したパンターの数 撃破したパンターの数攻撃9回 68輌 10輌 47輌 13輌 防御20回 115輌 6輌 98輌 59輌 合計29回 183輌 16輌 145輌 72輌 29回を平均して、M4シャーマンの数的優勢は1.2倍に過ぎなかったにも関わらず、M4シャーマンの有用性はパンターの3.6倍で、特にM4シャーマンが防御に回ったときにはパンターの8.4倍の有用性があったとの評価もあるが、データの数が不十分であり両戦車の性能の差が戦闘にどのような影響を及ぼしたのかを証明するまでには至っていない。 アメリカ軍はドイツ軍とは異なり、戦車の撃破数で賞されることはなかったが、第37戦車大隊大隊長エイブラムスは、自分が搭乗したM4シャーマン『サンダーボルト』でも多数のドイツ軍戦車を撃破し、終戦までに50輌のドイツ軍戦闘車両を撃破している。またラファイエット・G・プール准尉も、M4を3輌乗り換えながら、兵員1,000名殺害、捕虜250名確保、戦車12輌を含む戦闘車両258輌撃破の戦果を挙げている。また、イギリス、カナダ、オーストラリアなどイギリス連邦加盟国のほか、ソビエト連邦に4,000輌以上、自由フランス軍やポーランド亡命政府軍にもレンドリースされた。カナダ軍ではシドニー・ヴァルピー・ラドリー=ウォルターズ少佐がM4にて18輌のドイツ軍戦車と多数の戦闘車両を撃破して、第二次世界大戦における連合軍戦車エース(英語版)の1人となったが、ウォルターズが撃破した戦車のなかには、ドイツの戦車エース・ミハエル・ヴィットマンの乗るティーガーIも含まれていたとも言われている。 「M4の75mm砲は理想の武器」「敵重戦車も76mm砲で撃破できる」とするAGF(Army Ground Force/陸軍地上軍管理本部)の判断はM26パーシングの配備を遅らせ、終戦まで連合国軍の主力戦車として活躍した。
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