北アメリカでの英仏抗争とは? わかりやすく解説

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北アメリカでの英仏抗争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/04 02:05 UTC 版)

カリヨンの戦い」の記事における「北アメリカでの英仏抗争」の解説

フレンチ・インディアン戦争」も参照 1758年以前には、フレンチ・インディアン戦争イギリス軍連敗状態だった。軍の態勢目的にほとんど見合っていなかった。1756年から1757年にかけてはフランス後塵拝しヨーロッパで七年戦争における不調足並み揃えていた。ウィリアム・ピットは、イギリスすべての軍事力七年戦争注ぎ込むように努力したフランスが強いヨーロッパでは、防御主張し、その戦略乗り出した。それとは反対にフランスが弱い北アメリカでは、ヌーベルフランス攻撃するべく、3つの戦略的軍事行動を取ることを決意したペンシルベニアデュケーヌ砦攻略、イル・ロワイヤル(現在のケープ・ブルトン島)のルイブール砦の攻略、そして、将軍アバークロンビーによる、シャンプレン谷を通じて攻撃である。ピットアバークロンビーでなく、策略にたけて精力的なジョージ・ハウ,第3ハウ子爵英語版)を指揮官として使うつもりだったが、年長であり、しかも政治的配慮から、総体的に知名度のあるアバークロンビー指揮官任命したハウは副指揮官として加わったフランス軍は、1757年ウィリアム・ヘンリー砦の戦いではここを拠点として成功収めた1757年のこの勝利、そして、他の北アメリカ戦いで勝利したにもかかわらず翌年にかけて、フランス絶好調とは言えなかった。この年北アメリカ駐留フランス軍の、最高責任者であるルイ=ジョゼフ・ド・モンカルムと、ヌーベルフランス総督ピエール・フランソワ・ド・リゴー(ヴォードルイユ)は、3月になってからやっと、イギリス大軍北アメリカ派遣しようと計画していること、フランス国王ルイ15世支援が、どちらかと言えば少なめであることを知らされた。本国からの支援少ないのは、イギリス海軍抑えている大西洋に、フランスが主要戦力使って作戦に出る覚悟が、さほどにないことを意味していた。また、カナダ農作物不作が、これにさらに追い打ちをかけた。冬が進むに連れ食糧蓄え乏しくなると言う結果招いたモンカルムとヴォードルイユは、お互いに気が合うわけではなくイギリス軍への対処仕方に関して意見異なっていた。フランス軍構成は、5,000人の正規軍におよそ6,000人の民兵、そして人数面で限られた同盟インディアン戦士たちけだった対すイギリス軍5万と言われていた。ボードルイユも、戦闘経験はあまりなく、カリヨンルイブールとに、5000人ずつの兵を派遣したがっており、しかるのちに、3,500人の選りすぐった兵を、ニューヨーク植民地北西部モホーク川で、イギリス軍にぶつけようとしていた。モンカルムは、これは愚かな発想であると思っていた。このやり方では、イギリス軍は、いとも簡単に、防戦多く人数割く違いない。ヴォードルイユの意見優勢な中、モンカルムは、1758年6月ケベックからカリヨンへと向かった

※この「北アメリカでの英仏抗争」の解説は、「カリヨンの戦い」の解説の一部です。
「北アメリカでの英仏抗争」を含む「カリヨンの戦い」の記事については、「カリヨンの戦い」の概要を参照ください。

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