北アメリカのパッラーディオ主義建築
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/21 19:37 UTC 版)
「パッラーディオ建築」の記事における「北アメリカのパッラーディオ主義建築」の解説
パッラーディオの北アメリカにおける影響は、そこで建築家が設計した建物を建てるようになった始まりの時からほとんど明らかだったが、イギリス・アイルランド系哲学者ジョージ・バークリー(1685年-1753年)がアメリカでの先駆的パッラーディオ建築家だった可能性がある。バークリーは1720年代後半にニューポートに近いミドルタウンで大きな農家を取得し、それを「ホワイトホール」と呼び、ロンドンから持ってきていた可能性のあるウィリアム・ケントの著書『イニゴー・ジョーンズのデザイン』(1727年)から得たパッラーディオ風出入り口枠で改良した。パッラーディオの作品は彼がその目的で集めた千冊の図書に含まれ、イエール・カレッジに送られた。1749年、ピーター・ハリソン(1716年-1775年)がロードアイランドのニューポートにあるレッドウッド図書館のデザインに、より直接的にパッラーディオの『建築四書』から採用し、一方その10年後に同じニューポートのブリック・マーケットも概念的にパッラーディオ主義のものだった。 メリーランドのアナポリスにあるハモンド=ハーウッド邸(下の写真)は、アメリカ合衆国におけるパッラーディオ建築の一例である。主にアンドレーア・パッラーディオの『建築四書』に入っていた絵から設計された、植民地学校建築の中で唯一現存する作品である。この家は1773年から1774年に建築家ウィリアム・バックランドがメリーランド、アナランデル郡の裕福な農園主マチアス・ハモンドのために設計した。『建築四書』の第2巻第14章に入っていたイタリアのモンタニャーナにあるヴィラ・ピサニのデザインをモデルにした。 政治家で建築家のトーマス・ジェファーソン(1743年-1826年)はかつてパッラーディオの『建築四書』をその聖書だと言ったことがあった。ジェファーソンはパッラーディオの建築概念について大きな賞賛を得ており、その愛したモンティチェロ、ジェイムズ・バーバーのバーバーズビル荘園、バージニア州会議事堂、バージニア大学の設計はパッラーディオの本の図面に基づいている。ジェファーソンは古代ローマの建物にある政治的に強力な重要性を認識し、公共の建物をパッラーディオの様式で設計した。モンティチェロは(1796年から1808年に改装された)、パッラーディオのヴィラ・カプラに明らかに基づいているが、今日のアメリカではコロニアル・ジョージアンと呼ばれる様式に修正されている。ジェファーソンのパンテオンあるいはバージニア大学のロタンダは、概念とスタイルで間違いなくパッラーディオ様式である。 バージニアとカロライナでは、ストラットフォード・ホールやウェストーバー・プランテーション、あるいはチャールストン近くのドレイトンホールなど、多くの潮汐地域プランテーションハウスで、パッラーディオ様式が使われた。これらの例は、全てパッラーディオのテイストを持った古典的アメリカ・コロニアルの例であり、版画によって伝えられ、ヨーロッパの建物の習慣について最初は何も経験が無かった石工やオーナーの利益となった。アメリカのパッラーディオ様式の特徴は大きなポルチコの再登場であり、これはイタリアと同様、再度太陽からの保護の必要性に対応できた。様々な形態と大きさのポルチコがアメリカ植民地建築の大きな特徴となった。北ヨーロッパの国々では、ポルチコは単なるシンボルとなり、閉じられてしまうことが多く、あるいは柱間によってデザインの中に提示されるだけとなり、ときには車寄せとなって適用され、イングランド・パッラーディオ様式のかなり後期の例となった。アメリカではパッラーディオのポルチコはその輝きを取り戻すことができた。 このパッラーディオとギブスの影響をはっきりと示す家屋の例は、1758年から1762年にバージニアのリッチモンド郡のマウントエアリーである。 ウェストーバーでは、北と南の玄関が輸入されたポルトランド石で作られており、ウィリアム・サーモンの『パッラーディオ・ロンディネンシス』(1734年)にあるプレートに倣って配置された。 ドレイトンハウスのはっきりした特徴は、2階建てのポルチコであり、パッラーディオから直接引かれていた。 ワシントンD.C.にある新古典調大統領邸宅のホワイトハウスはアイルランドのパッラーディオ建築からヒントを得ていた。キャッスル・クールと、ダブリンにあるリヒャルト・カッセルスのレンスターハウスはどちらも、1792年から1800年の間に建てられたこの大統領官邸を設計した建築家ジェイムズ・ホーバン(1758年-1831年)にヒントを与えたと主張している。ホーバンはアイルランドのキルケニー県カランで生まれ、ダブリンで建築を勉強した。当時のダブリンは1747年頃に建てられたレンスターハウスが最大級に瀟洒な建物だった。ホワイトハウスはパッラーディオ建築よりも新古典派に近い。特に南ファサードは、やはりアイルランドにあるジェイムズ・ワイアットが1790年に設計したキャッスル・クールによく似ている。キャッスル・クールは、建築家で評論家のガーベイス・ジャクソン=ストップスの言では、「パッラーディオ建築伝統の集積だが、その簡潔な装飾と高貴な厳格さにあっては厳密に新古典的である」となる。 アメリカでパッラーディオ建築に適用されたものの1つに、ピアノ・ノビーレがヨーロッパの伝統と同様にサービス階の上ではなく、地上階に置かれる傾向にあることである。このサービス階が存在するときには、目立たない半地下となっている。これでより初期のパッラーディオ・デザインに見られたような主玄関に続く装飾的外部階段の必要性がなくなった。これはパッラーディオ様式に続いた新古典派建築の特徴でもある。 イギリス領植民地時代(1607年-1776年)からアメリカ合衆国で『建築四書』のデザインに決定的に拠っているとされる家屋2軒は、メリーランド州アナポリスの建築家ウィリアム・バックランドのハモンド・ハーウッド邸(1774年)と、トーマス・ジェファーソンの初代モンティチェロ(1770年)である。ハモンド・ハーウッド邸のデザインの元はモンタニャーナのヴィラ・ピサニ(第2巻第14章)であり、初代モンティチェロのデザイン元はピオンビーノ・デーゼにあるヴィラ・コルナロ(第2巻第14章)である。トーマス・ジェファーソンは後にそのファサードを増築で覆ってしまったので、ハモンド・ハーウッド邸が今日のアメリカで唯一純粋で原始のままの直接模倣例となっている。 カナダではかなり後に発展したために、パッラーディオ建築は稀な存在になっている。顕著な例の1つは1819年に完成したノバスコシア州議事堂である。 アメリカにおけるパッラーディオ建築研究センター Inc. は非営利会員制の組織であり、1979年に設立され、アメリカ合衆国におけうパッラーディオ建築の影響を研究し、理解を促進するために動いている。
※この「北アメリカのパッラーディオ主義建築」の解説は、「パッラーディオ建築」の解説の一部です。
「北アメリカのパッラーディオ主義建築」を含む「パッラーディオ建築」の記事については、「パッラーディオ建築」の概要を参照ください。
- 北アメリカのパッラーディオ主義建築のページへのリンク