作家生活へ
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「アルトゥル・シュニッツラー」の記事における「作家生活へ」の解説
シュニッツラーはやがて文学と演劇に傾倒し、カフェハウスで他の作家たちと交友関係をもつようになり、賭博におぼれ、劇場に入り浸った。優雅な美男子であった彼はまた、評判の女たらしであり、貸し部屋やホテルで多くの情事を重ねた。このような退廃的な生活を重ねる彼が、医師としてはたしてうまくやっていけるかどうか、母のルイーゼとその召使は心配していた。 1888年、シュニッツラーは、戯曲『アナトール(ドイツ語版)(Anatol)』を自費出版した。『アナトール』は7つの一幕もので、表面的には快楽主義者であるが深層には厭世観をかかえる上流青年「陽気なふさぎ屋」が、下町の「可憐なおぼこ娘」や上流「社交婦人」と繰り広げる刹那的な恋愛遊戯を、揺れ動く内面とともに、物憂げに、優雅に描いた作品である。 1890年、彼はその神童ぶりが話題となった16歳のフーゴ・フォン・ホーフマンスタールと出会っており、シュテファン・ツヴァイクに対し、生涯初めて天才に出会ったように感じたと語っている。ホーフマンスタールは、シュニッツラーの戯曲『アナトール』の紹介のため、美しい短詩を書いた。シュニッツラーは、友人となったホーフマンスタールやリヒャルト・ベーア=ホフマンとともに「青年ウィーン派」の仲間に加わり、彼らはよくカフェ・グリーンシュタイドル(ドイツ語版)に集った。彼はケルントナー通り61番地にあるレストラン・ライディンガーにもよく通っており、また精神分析学のジークムント・フロイトとも知り合いの仲だった(詳細後述)。 シュニッツラーは、『アナトール』の成功によって本格的な創作生活に入った。この作品は1893年に初上演され、この年以降、彼は開業医のかたわら戯曲と散文(おもに短編小説)を書いたが、これらの作品ではとりわけ登場人物の深層心理の描写に意を注いだ。シュニッツラーの作品の舞台はたいてい世紀転換期のウィーンであり、作品に登場する人物は、少尉、医者、芸術家、ジャーナリスト、役者や軽薄なダンディなど、当時のウィーン社会の典型的人物であった。特に郊外から出てきた「可愛い女の子」は、いわばシュニッツラーのトレードマークのようなものとみなされ、以後、彼をこき下ろそうとする敵対者にとって格好の標的となった。 1893年に父が死んだ後、彼はポリクリニック病院を去り、ウィーン第1区のインネレシュタットのブルクリング (Burgring) 1番地に自分の診療所を開いた。彼はまた、父の死後の1895年に発表された『咽喉医学臨床アトラス』の出版にも協力した。診療所は開店休業に近い状態であったが、医学的方法は終生持ち続け、特に催眠術と深層心理学には深い関心を寄せており、これが彼の創作活動にも強い影響を及ぼしたといわれている。 31歳で作家生活に入ったシュニッツラーは続いて『恋愛三昧(ドイツ語版)』(Liebelei、1895年)では儚い慕情を、『緑のおうむ(ドイツ語版)』(Der grüne Kakadu、1899年)では仮象と現実の交錯する奇怪な世界を戯曲に描いたが、登場人物は『アナトール』で示されたシュニッツラー特有の人物類型によるものであった。『恋愛三昧』は発表後、すぐにウィーンのブルク劇場で上演され、初演1年後には貴賓席に大公が座る評判作となった。この作品は、けなげに慎ましく暮らす下町のおぼこ娘(「可愛い女の子」)を愛しながら、その愛にとびこむ勇気を持たず、一時の慰めに人妻との情交に溺れた結果、その夫に決闘を申し渡されて、あっけなく死んでしまうという内容であるが、今もなお時代を超えてドイツ語圏の劇場で広く上演される象徴的な作品となっている。 小説では、中編『死(ドイツ語版)』(Sterben、1895年。森鷗外訳『みれん』)や短編『死人に口なし(ドイツ語版)』(Die Toten schweigen、1897年)を執筆している。『死(みれん)』では、生が生として充足していないところから、死もまた無気力の延長上の空疎な未練がましいものとなり、『死人に口なし』では不義をなしたという自覚があっても、それが贖罪の意識には決して高まらない退嬰的な男女のすがたをいずれも典雅な文体で描き、こうした印象主義的小説は、ドイツ文学には数少ない心理小説の傑作とされている。 シュニッツラーにとって重要なのは精神の病的な状態ではなく、むしろ、社会における不文律や性的タブー、礼儀作法などによって、特に弱い立場の市民に要請される日常的な自己欺瞞に直面したときの平均的で普通の人間の内面のありようであった。フロイトが精神分析学で行ったように、シュニッツラーは、これまで理性と進歩をひたすら目指す社会が抑圧してきタブーを小説や戯曲のかたちで表現したのである。彼が示したのは、人間がふだん意識しないもののなかに、理性のコントロールから逸脱する力が宿っていることだった。 10人の人物が2人ずつ登場して生の倦怠を表現しつつ各場面をつなぐ戯曲『輪舞(Reigen)』(1900年)は不倫を題材とし、性を大胆に表現して、当初は上演禁止になるほどの衝撃を演劇界にもたらした。この作品はすでに1896年に書かれていたが、当初は検閲を考慮して私家本の形で友人・知人に配られたものであった。陰影に富む作品であったが、あまりにエロティックすぎて風紀を乱すというのが上演中止の理由であった。 シュニッツラーは1900年、短編小説『グストル少尉(ドイツ語版)(Leutnant Gustl)』を発表し、ドイツ文学ではじめて「内的独白(モノローグ)」の手法を取り入れた。この視点と技法によって、彼は、登場人物の心の葛藤をより深く直接的に読者に示すことに成功した。『グストル少尉』はわずか6日で書き上げたといわれる。しかし、この作品はパン屋にひどく虚仮にされる将校の苦悶を描き、オーストリア軍の威信を傷つける内容を含んでいた。少尉は身分の違いからパン屋に決闘を申し渡すことができず、といって軍服を着用することは自身の良心が許さず、もはや残された道は自殺する以外ないと思い定めていたところ、パン屋事故死の報せを知って安堵したという心の動きを克明に描いたため、軍人たちからは不評を買い、親軍派の新聞からも攻撃を受けた。これにより、シュニッツラーは条例違反として1901年6月14日付けで予備役軍医中尉の階級を剥奪された。
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