京都精華大学教員
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1990年代には古典や歴史の書下ろし作品に取り組み、1994年から1996年にかけて漫画版『吾妻鏡』を描き、史料を調べて製作する手法を知る。1993年モンゴルへの乗馬ツアーで乗馬が趣味になっていた。「乗馬できて馬が描ける」漫画家の条件に合い、1997年、エルメスのフランス本社のジャン・ルイ・デュマ社長から依頼され、鞍職人の鞍作りから始まりブランド品とともに今も作り続けているエルメスの社史を漫画にした『エルメスの道』を発表。報酬目当てでなく、真摯な取材で描き上げたが、「読みたいのは物語で社史ではない」と作品とは認めないファンもいた。 本作が2000年4月開設予定の京都精華大学マンガ学科長就任予定だった牧野圭一に評価されたことがきっかけとなり、2000年に京都精華大学マンガ学科の教授に就任し、漫画家として日本初の大学の専任教員となった。牧野は、『エルメスの道』が敢えて個性を殺して描いていることに着目し、教員もできるだろうと打診してきた。『天馬の血族』連載を2000年初めに終わらせようと思っていたこと、細かい漫画の右上から始まり左下へ流れる読み方などのルールやペンの使い方も知らない若者や、言葉の表現すら注意しない漫画に誇りを持てない編集者などの新世代たちに、教えたいという思いがあった。教員同時就任に山本順也がいて、「腐れ縁ですね」と思わず言う。同年に夏休み中に連載をいったん引き受けたが、教えることと内面でぶつかり、描けずに撤回する。それ以来大学教員時代は漫画を描けていないが、代わりに京都と東京で毎年個展を開催してファンと交流している。 2001年から「原画'(ダッシュ)」プロジェクトが開始された。個展での準備でパソコンから印刷して原画に似たものができたことをきっかけに、発案する。原画は漫画家の下書きの線や編集者の印刷所への指示メモなど時代の歴史が残る。しかし、過去には紙の質も印刷も悪く劣化していき原型が残らない恐れがある。この、原画を保存するための保護と、広く見てもらうことを目的にした、精巧な複製原画である「原画´(ダッシュ)」の制作研究を漫画家の了解を得て精華大学と共同して行う。 2006年、京都精華大学マンガ学科はマンガ学部に昇格した。 2007年、『地球へ…』が発表から30年の時を経て、より原作に近い絵柄でテレビアニメ化された。 2008年、京都精華大学マンガ学部の学部長に就任。鎌倉市の自宅から新幹線で大学に通い、週の半分は京都にいる多忙な生活を送っていた。講義では、学生の作画のコマ割り、吹き出し入りのレイアウトを見て、アドバイスする実技や、「脚本概論」では経験から、脚本術を形式化だと無視して後で苦しむことになるので、脚本の蓄積されてきた手法を学ぶ大切さを教え、目に見えない感情や思いを表し伝える「芸術印象点」を高めるよう強調し、特色を出していた。石ノ森章太郎の『マンガ日本経済入門』に学び、実用的な機能漫画も教えた。 2010年、東京都青少年健全育成条例の漫画表現規制改正案に憂慮し、ちばてつや、永井豪、里中満智子らと反対を表明し、「非実在青少年」の文言を撤回させる(改正自体は12月に成立)。 2013年11月、京都精華大学の次期学長に選出された。2014年4月就任し学長時代の2017年にはデジタル化に対応する「新世代マンガコース」を新設した。4年間の任期後に2018年3月末で1期務めて退任した。 鎌倉市に転居後、両親と同居していたが、その没後に妹夫婦と同居する。2011年東日本大震災に遭い、東京一極集中に疑問を覚えて、鎌倉市在住25年目に、2013年妹夫婦と一緒に福岡県へ移住し、続けて同居生活を送る。 2013年 - 2019年は政府知的財産戦略本部の有識者本部員、2015年 - 2017年は文部科学省中央教育審議会委員を務めた。 2014年11月、秋の紫綬褒章を受章。 2016年、BBCニュースのインタビューを受け「国連が批判する日本の漫画の性表現に「風と木の詩」が扉を開けた」(英語版タイトルは"The godmother of manga sex in Japan")という記事が掲載される。 2018年4月、京都精華大学の大学院マンガ研究科長・全学研究機構国際マンガ研究センター長に就任。 2019年3月、画業50周年を記念した巡回展「竹宮惠子 カレイドスコープ 50th Anniversary」を開催。 2020年3月31日、京都精華大学を定年退職。4月、京都精華大学名誉教授称号を授与される。
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