くじょう‐みちいえ〔クデウみちいへ〕【九条道家】
九条道家
九条道家
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九条道家像(『天子摂関御影』、紙本着色)
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時代 | 鎌倉時代前期 |
生誕 | 建久4年6月28日(1193年7月28日) |
死没 | 建長4年2月21日(1252年4月1日) |
改名 | 道家→行恵(法名) |
別名 | 光明峯寺関白、光明峯寺殿、光明峯寺入道殿、峯殿、峯入道殿、東山入道、東山褝閤 |
官位 | 従一位、摂政、関白、内覧、左大臣、准三宮 |
主君 | 土御門天皇→順徳天皇→仲恭天皇→後堀河天皇→四条天皇→後嵯峨天皇→後深草天皇 |
氏族 | 九条家 |
父母 | 父:九条良経、母:一条能保の娘 |
兄弟 | 立子、慶政、道家、教家、基家、良尊、道慶 養兄弟:良平 |
妻 | 正室:西園寺掄子(西園寺公経の娘) 源有雅の娘、源重房の娘 |
子 | 竴子、教実、二条良実、藤原頼経、一条実経、法助、行昭、深忠、勝信、慈実、円実、慈源、道智、道意、仁子、佺子 |
特記 事項 |
鎌倉幕府4代将軍藤原頼経の父 |
九条 道家(くじょう みちいえ)は、鎌倉時代前期の公卿。太政大臣・九条良経の次男。官位は従一位・准三宮、摂政、関白、左大臣。九条家3代当主。光明峯寺殿、峯殿を号す。通称に光明峯寺関白(こうみょうぶじ かんぱく)。京都九条通に東福寺を建立した。鎌倉幕府4代将軍・藤原頼経の父。
生涯
朝廷内で出世
幼少時から祖父の九条兼実に寵愛され、祖父に引き取られて養育された。建仁3年(1203年)2月13日、元服すると同時に正五位下に叙任される。その後も侍従、左近衛中将、従三位、権中納言と栄進を続ける。元久3年(1206年)春、父の良経が急死すると、道家はその後を継ぐ。
承元3年(1209年)3月、姉の立子を皇太弟の守成親王(後の順徳天皇)の妃として娶わせる。そのため、その後も左近衛大将、権大納言、内大臣、右大臣と栄進を続ける。更に順徳天皇と姉立子との間に懐成親王(後の仲恭天皇)が生まれると、東宮補佐役となる。建保6年(1218年)12月には叔父の九条良輔が死去したこともあり、左大臣にまで栄進した。これは天皇家の外戚関係になったことと、岳父の西園寺公経が鎌倉幕府との関係が深かった事から[注釈 1]、幕府の後ろ盾によるところが大きかった。
鎌倉幕府と提携
建保7年(1219年)1月、3代将軍・源実朝がその甥の公暁によって暗殺されると、道家の母が頼朝の姪に当たることから、執権の北条義時より3男の三寅、後の藤原頼経を4代将軍にと要請される[注釈 2]。道家はこれに応じて同年6月、頼経(2歳)を鎌倉に下向させた。承久3年(1221年)4月には順徳天皇が懐成親王に譲位して上皇となり、懐成親王(2歳)は践祚して仲恭天皇となり、道家はその外叔父に当たるために摂政となった。ところが実朝の死で朝幕の力関係が崩れたのを機に、後鳥羽上皇によって承久の乱が起こされる。これはしかし幕府方の勝利に終わり、朝廷方の首班が続々と処断される中、7月には仲恭天皇は廃位された。道家は後鳥羽上皇や順徳上皇たちの討幕計画には加わらなかったが、摂政を罷免された。
廃位された仲恭天皇は道家に預けられ、天福2年5月20日(1234年6月18日)、17歳で死亡するまで幽閉・蟄居処分のままであった。混乱期であり、在位もごく短く(歴代最短記録)、上皇にもならないまま蟄居のまま死亡した。ゆえに即位式も大嘗祭も行われなかったため諡号・追号がされず、即位の事実も曖昧なまま、長く九条廃帝、承久の廃帝、半帝、後廃帝などと呼ばれた[注釈 3]。
嘉禄元年(1225年)、幕府の陰の実力者であった北条政子が死去したため、翌年1月に鎌倉に下向していた頼経は正式に征夷大将軍に任命される。承久の乱後、朝廷では幕府との関係が深かった岳父の西園寺公経が最大実力者として君臨していたため[注釈 1]、政子の死や頼経の将軍就任、公経の叔母である北白河院の支持も手伝って、道家は安貞2年(1228年)12月、近衛家実の後を受けて関白に任命された。翌年11月には長女の竴子(のちの藻璧門院)を後堀河天皇の女御として入内させた。
全盛期 太閤として
寛喜3年(1231年)7月、長男・教実に関白職を譲ったが、なおも朝廷の最大実力者として君臨し、従一位にまで栄進する。しかも中宮となった竴子に秀仁親王(後の四条天皇)が生まれ、秀仁親王が貞永元年(1232年)10月に後堀河天皇の譲位を受けて践祚[注釈 4]すると、道家は外祖父として実権を完全に掌握し、長男の教実は摂政となった。しかし教実は文暦2年(1235年)3月に早世したため、道家が再び摂政となる。このため、九条家は朝廷の最大有力家として君臨したが、これに対して近衛家が猛反発したため、道家は嘉禎3年(1237年)に娘の仁子を近衛兼経に嫁がせた。
嘉禎4年(1238年)、この年は道家にとっては全盛期を象徴する年となった。2月9日には16歳で既に権大納言になっていた一条実経が将来の摂関就任の要件となる左近衛大将を兼ね、2月17日に鎌倉にいる頼経が上洛して約20年ぶりに父子再会を果たし、閏2月16日には慈源がわずか20歳で天台座主に任ぜられ、4月10日には12歳である5男の福王(後の法助)が仁和寺に入って道深法親王の弟子となり、翌11日には嫡孫(長男・教実の嫡子)である11歳の九条忠家の元服が行われた。一連の行事を終えた道家は4月25日に叔父の大僧正良快を戒師として出家し、法名は行恵とした[3]。以後は禅閤として権勢を誇る。
仁治2年(1241年)正月に行われた四条天皇の元服の際には本来は院に遣わされるべき報告の使者が代わりに道家の元に遣わされ(『宗雅卿記』。なおこの時期には治天にあたる院は不在)、同年末には孫娘(長男・教実の娘)の宣仁門院を四条天皇の女御として入内させる。
権勢の衰退
道家は嘉禎3年(1235年)4月、道家は菅原為長の献策を受けて、鎌倉に二条定高と中原師員を派遣して、鎌倉幕府に対して後鳥羽法皇(当時出家していた)と順徳上皇の京都への帰還を提案したが、幕府からは拒否されている[4]。これは四条天皇がまだ5歳である一方で、治天の君であった後堀河上皇も母院である藻璧門院も既に亡くなっており、代わりとなる治天の君を必要としたからと推測されている。しかし、このことは幕府の道家に対する警戒感を強めたと考えられている[5]。
しかし四条天皇は仁治3年(1242年)に12歳で夭折する。道家は次の天皇として順徳上皇の皇子で縁戚に当たる岩倉宮忠成王を推薦したが、北条泰時はかつて承久の乱に積極的に加担した順徳上皇[注釈 5]の子孫から天皇を擁立することに強硬に反対したため、これは実現せずして終わった。なお、順徳上皇の兄の土御門上皇は承久の乱に関与しなかったため、その皇子の邦仁王(後嵯峨天皇)が四条天皇の後を受けて践祚することとなった(仁治三年の政変)。
その後、次男の二条良実が祖父の公経の後押しもあって関白となったが、祖父の後ろ盾でなったことを見てもわかるように、後嵯峨天皇の下で公経と土御門定通(天皇の大叔父)が政治の実権を握った一方で、天皇家との関係を失った道家の実力は衰退していた。また、公経は独断で自分の孫娘である西園寺姞子を後嵯峨天皇の中宮に立て、その母方の叔母にあたる四条灑子を良実の室にすることで道家と距離を置き始める。
だが、寛元2年(1244年)8月に公経が死去すると、道家は勝手に公経の遺言と称して関東申次の職を継承(ただし、公経の生前から「将軍の実父」として公経とともに関東申次の職務にあたっていたとする説もある)し、さらに寛元4年(1246年)1月には次男の良実を排除して(道家と良実は不仲で、良実は父から義絶されていた)、寵愛する4男の一条実経を関白として擁立する(後深草天皇践祚後は摂政に転じる)。しかも独断で関東申次を3人制として実経と近衛兼経を任命するなど、朝廷内での権勢を取り戻す。だが、このような独断専行を見せ始めたために次第に朝廷における信望を失っていった。また、幕府に対しても将軍の実父である事を理由にその政策への干渉を始め、北条氏得宗家に反発する北条一族や御家人達の支持を集めた事から、幕府側からも危険視されるようになっていった。
失脚、最期
寛元4年(1246年)閏4月から6月に執権北条時頼下で起きた名越光時らの陰謀に、将軍辞任後も大殿として息子の将軍藤原頼嗣を後見していた頼経が関与していた事が発覚し、頼経は7月に京へ追放された(宮騒動)。それに対する連座に加えて、道家が親しくしていた雅成親王(後鳥羽天皇の皇子で承久の乱後但馬国に流されていた)が幕府によって一時帰京を許された折に、後嵯峨上皇と後深草天皇を排して同親王を皇位に就けようとしていたとする容疑[注釈 6]によって、道家は10月に関東申次の職を罷免(公経の子・西園寺実氏に交代)され、実経も翌寛元5年(1247年)1月に摂政を罷免させられた[注釈 7]。これにより道家は政治的立場を完全に失った。なお、名越の陰謀にも関与していた三浦光村が宝治元年(1247年)6月の宝治合戦で兄の泰村と共に北条執権方に討たれた際に「九条頼経殿が将軍の時、その父九条道家殿が内々に北条を倒して兄泰村殿を執権にすると約束していたのに、(名越の陰謀の時に)泰村殿が猶予したために今の敗北となり、愛子と別れる事になったばかりか、当家が滅ぶに至り、後悔あまりある」と悔やんだとされていることから、一連の「反得宗家」の陰謀に道家自身が積極的に関与していた可能性も指摘されている。
さらに建長3年(1251年)末、了行ら宝治合戦残党の幕府転覆計画が発覚し、それに道家や頼経が関係しているという嫌疑がかかる。翌建長4年(1252年)、孫の頼嗣は将軍職を解任されて京へ追放され、道家はその中で2月21日に死去してしまった。享年60。策謀が頓挫したばかりか鎌倉幕府側に謀議が露見し、時頼からの追及を受けて晩年は憔悴しきっていた。
死因は病死と言われているが、頼嗣失脚の報を聞いてそのまま卒倒して死去したとする説や、隠然たる影響力を持つ道家の存在を苦々しく思った幕府によって暗殺されたとする説もある。
『玉蘂』について
書名の由来
九条道家の日記は『玉蘂(ぎょくずい)』と呼ばれている。「玉蘂」という一見奇異な書名がつけられているのは、祖父・九条兼実の日記が『玉葉』と名付けられているのに因んだもので、草木において葉よりも更に末端である花弁の中の蘂に譬えて命名されたものと考えられている。更に『玉蘂』は、曾祖父・藤原忠通の日記『玉林』、祖父・兼実の日記『玉葉』などの末の意味で、謙称の名であろう。また晩年の住居から『光明峯寺殿記』や『峯禅閣記』とも称されている。
現存状況と伝本
一条兼良著『桃花蘂葉』当家相伝正記事に「玉蘂七合、光明峯寺禅閣自筆記」とある。『玉蘂』は文明12年(1480年)の頃、室町時代の中頃までは、かなり大部のものが伝わっていたものと思われるが、戦国の争乱に罹災して、今日に伝わっているのは次の期間の日記のみである。
誤伝について
承久3年(1221年)はその間の重要な年代であるが、惜しまれることに現存する記録は少ない。また、残存する記録にも欠落部分が多い。なお、陽明文庫蔵本には仁治2年(1241年)1月と記された一冊があるが、その内容は実際には承元4年(1210年)1月の日記である。いつ頃から誤って伝えられたかは明らかではないが、大阪府立図書館蔵本において、仁治2年(1241年)1月の日記の次に仁治3年(1242年)3月の日記が掲載され、その末尾に以下の記載がある。
右以正親町家本令書写者、
正德二年辰四月、
吉見刑部大輔源幸和、
これにより、正徳2年(1712年)以前には既に誤って伝えられていたことが明白である。また、陽明文庫蔵本の表紙は近衛家熈の筆跡であることから、誤伝は元禄年間以前に遡ると推測される。
仁治三年三月十八日条の記録
次に、仁治3年(1242年)3月の日記は、12日から30日までの記録である。そのうち18日条、後嵯峨天皇の御即位に関する記述中に、
とあり。『公卿補任』仁治3年(1242年)条によれば、「参議左大弁」は二条資季であり、また「参議侍従丹波権守」も同人物を指す。したがって、この日記は資季の日記『荒涼記』であり、道家の日記ではない。陽明文庫蔵本には該当部分が存在せず、大阪府立図書館蔵本などにのみ存在する。
伝本と刊行状況
自筆本『玉蘂』は一条家に伝わり、室町時代まで現存していたが、現在では近世の写本を伝えるのみである。主な所蔵者は、陽明文庫・京都府立総合資料館・国立公文書館内閣文庫等である。思文閣出版から昭和59年(1984年)に今川文雄校訂で一冊本として出版された。
内容と記述の特質
以上を概観すると、道家自身やその家族の身辺の儀礼に関することと、朝廷において自分が主催または関与した臨時・恒例の公事、とくに儀式典礼に関することに、多くの紙幅を費して詳記しており、道家の関心の存したところが知られるのである。この日記に機務に関する記述が殆ど見えないのは、現在残存している日記が、全体から見て一部分にすぎないことにもよると思われるが、星野恒博士が、
道家平素頗陰謀秘計アリ、蓋其人世故ニ熟練シ、巧ニ応酬ヲ為ス、コレ其一門貴盛ヲ極ムル所以、又其事故多キ所以ナリ、機智アルモノハ妄ニ底蘊ヲ示サス、日録記ス所裏面ノ事情ニ及フモノ少キハ、或ハコレ等ノ為ナラジ、
と指摘されているように、記事が非常に詳細であるのに、儀式典礼に関することに殆ど終始して、政局の裏面やその批判に及ぶことの少ないのは、他人に披見された場合を顧慮して記述をさし控えたことも考えられる。
「平家記事」について
かつて『平家物語』の異本研究において注目された、承久2年(1220年)4月20日条の記事に以下の記述がある。
資頼朝臣送書云、来廿六日行啓也、而件日可有御方違行幸、同日之条惮有無如何、答曰、問例於外記、可問忌禁有無於在継朝臣者、以有長為使、平家記事仰遣光盛卿許、彼卿多持平家世、有可供与之返報、
この文中の「平家記」は、『平家物語』ではなく、平家一門の公式記録を指す。しかし、過去には誤って『平家物語』と解釈された経緯がある。『玉蘂』の中心的な記述内容は、朝廷の儀礼や有職故実に関する事柄である。
批判的記述の事例
藤原実宗の死に対する評価
ただし、必ずしもそうとは限らない。例えば、道家は日記の中で藤原実宗の死について評している。実宗は建暦2年(1214年)12月8日、64歳で世を去っている。当時、権大納言兼左大将の道家はその日記に実宗入滅のことを次の様に記している。
八日、今日申時入道内大臣、実宗、入滅、年六十四、按察大納言公通卿男、所経歴、侍従・近衛中将・蔵人頭・参議右中将・中納言・大納言、新院御在位之初下﨟超天任大臣、仍籠居、其後又中風不出仕、建仁二年内大臣通親薨闕可任大臣之由有勅、而朔旦在前、件日必可出仕之故、右大臣家実不可出仕故也、左大臣故殿重服、難叶、依中風也、辞退、人以為奇、仍隆忠任了、其後経数年、元久之頃任大臣、絶已六代興家、可謂高人欤、又子息為大納言、孫為宰相、一上労輩可足欤、後生定同前欤、兼日有夢想云々、余即為長俊朝臣使、問大納言及公定卿俊家等、答不覚之由了、
実宗の官歴がほぼ尽くされているうち、極官は内大臣である。任内大臣は即ち土御門天皇の元久2年(1205年)11月24日である。「六代興家」とあるのは、西園寺家は藤原師輔の子公季に始まっている、公季は太政大臣に到ったが、その子孫実成、公成、実季、公実、通季、公通はいずれも大納言級止まりであった。この六代の間の極官に対して実宗が、これを超えて内大臣に到ったことを言ったものと思われる。実宗に於て、六代の祖先を超えて内大臣に到り、家を興したということは日記の記主道家の強く印象しているところである。
三条家の三代に対する評価
道家は承久2年(1220年)1月1日の日記の中で、三条実房・公房・実親の三代にわたる賢愚について、以下のように評している。
入道左府、世稱大恩教主御房、是則公事為諸人師之故也、而其息太相国於事現尾籠、人以属目、孫実親頗勝于父公欤之由、人以存之欤、今有此違失、已不顕金色膚、交俗塵欤、可嘲々々、
藤原宗業の昇進に対する評価
また藤原宗業が順徳天皇の侍読となり、昇殿を許された際、その身分に不相応な昇進に対して、道家は建暦2年(1214年)8月3日の日記で次のような厳しい批判と反省を記している。
宗業其身太下品物也、越諸家為家司為後見、踏雲上之条又希有事也、依尋其才、一已被式部大輔・正四位下御侍読井殿上之条、太不可然事也、須申此子細也、然而為人不便、仍不具録、可謂不忠欤、自今以後彌詞可驚奏也、努力々々、
記述の特質
故に特に意を用いて裏面の事情を記さなかったとも思われない。これは機務に直接関与しない者の場合には、他から耳に入れた機密な事柄について非常に興味がわくのであるが、最高の権力者で、自分の意のままに振舞うことのできる人物にとっては、自分が裁決したことは、そのまま公表実施に移されるのであるから、機務に関することも日常のことであって、特にその経過を自ら記録する興味も起らず、また書き止めておく必要も感じなかったのであろう。故に「師員又来、在簾前問密事」あるいは、「言談多端、悉不能記也」などと淡々と書流している。故に日記はその記録者が反主流派の立場にあるとき、または失意の境遇にあるときの方が、却って重要な記述に富む傾向がある。自分の意見が通らなかったり、意表なまたは自分の意に反する方向に政局が推移した場合に、要路の当局者の行動や、ときの政局に対して批判を加えたり、政道を非難したり、時局・世情を慨嘆する情念が凝って思わず筆端に迸って、裏面の事情にも書き及ぶのである。一方権力の座にある人達にとって、自分が主動して開催したり、関与して重要な役目を演じた儀式や典礼について、その一部始終の記事を詳細に書き留めて置くことは誇らしいことであり、後世にも子孫にも永く伝うべき晴の盛儀であって、感激と興味のある事柄である。それはいまも種々の典礼や儀式が行われたときに、それを記念するために豪華な記念誌が編纂されるのと似通った心情の所産であろう。道家が『玉蘂』に非常に詳細な記事を残したのも同じ心境であろう。即ち、政権を鎌倉幕府に奪われたいまもなお、父祖の昔にかわらぬ盛儀を遂行し得たという、当時の公卿一般に共通した喜びと満足感を以て記録したことであろう。
道家の学識と性格
道家も若い頃から、儀式に臨む前には、『西宮記』などの有職故実書はもとより、先祖の残した記録類や、書写蒐集した先人の日記などから、関係の資料を抄録して研究を積んでその日に備えた、道家は早く父祖を失ったので、有職故実については伯父の松殿基房を師として教を受けた。基房は摂政・関白・太政大臣・従一位まで昇ったが、平家に反抗して太宰権師に貶せられ、平氏を追うて入京した源義仲と結んで政界復帰を企て、子息の師家を一時は摂政・内大臣に昇進させることができたが、間もなく義仲の敗死によって師家も解官され、当時は失意のうちに入道閑居の身であったが、来訪して熱心に教示を請う若い道家を、喜び迎えて親しく質問に答えた。そこで道家は建暦2年(1214年)9月13日の記録において、基房への敬意と感謝の意を表している。
自故殿御時後、御辺事難遠之上、已公事先達、又先師也、
道家は年少の頃には有職故実の道に通達し、岳父・西園寺公経もその説に耳を傾けるほどであった。道家は議式を記録した後、意に沿わない場合には「以外違失也」「甚以無礼也」「不可然事也」などと痛烈に非難し、また公事の遅滞に対し、承久2年(1220年)3月1日の記録に、
末代之人一切不知礼法、非我所得要事之外、不思公事解怠、可指弾々々々、
という慨嘆を記している。
官歴
※日付=旧暦
- 1203年(建仁3年)2月13日、元服し、正五位下に叙位。禁色を許される。3月2日、侍従に任官。7月8日、左近衛中将に転任。12月20日、従四位下に昇叙し、左近衛中将如元。
- 1204年(建仁4年)1月13日、播磨介を兼任。改元して元久元年4月13日、従四位上に昇叙し、左近衛中将・播磨介如元。
- 1205年(元久2年)1月9日、従三位に昇叙し、左近衛中将如元。3月9日、権中納言に転任し、左近衛中将如元。8月9日、正三位に昇叙し、権中納言・左近衛中将如元。
- 1206年(元久3年)1月6日、従二位に昇叙し、権中納言・左近衛中将如元。5月30日、橘氏長者宣下(藤原氏が兼帯する例)。6月16日、左近衛大将を兼任。左近衛中将を去る。
- 1207年(建永2年)1月5日、正二位に昇叙し、権中納言・左近衛大将・橘氏長者如元。2月10日、中納言に転任。左馬寮御監を兼任か?。左近衛大将・橘氏長者如元。
- 1208年(承元2年)7月9日、権大納言に転任し、左近衛大将・左馬寮御監・橘氏長者如元。
- 1212年(建暦2年)6月29日、内大臣に転任し、左近衛大将・左馬寮御監・橘氏長者如元。
- 1215年(建保3年)12月10日、右大臣に転任し、左近衛大将・左馬寮御監・橘氏長者如元。
- 1218年(建保6年)2月26日、左近衛大将・左馬寮御監を辞す。11月26日、東宮(のちの仲恭天皇こと、懐成親王)傅を兼任。12月2日、左大臣に転任し、東宮傅・橘氏長者如元。
- 1221年(承久3年)4月20日、摂政宣下。藤原氏長者宣下。橘氏長者を止むか?7月8日、摂政・藤原氏長者を止む。
- 1222年(承久4年)、橘氏長者宣下。
- 1228年(安貞2年)12月24日、関白宣下。12月27日、藤原氏長者宣下。橘氏長者を止むか?
- 1231年(寛喜3年)7月5日、従一位に昇叙し、関白・藤原氏長者を辞す。
- 1235年(文暦2年)3月28日、摂政宣下。藤原氏長者宣下。
- 1237年(嘉禎3年)3月10日、摂政・藤原氏長者を辞す。
- 1238年(嘉禎4年)4月24日、准三宮宣下を固辞。4月25日、出家。
- 1252年(建長4年)2月21日、薨去。享年60
系譜
- 父:九条良経
- 母:一条能保の娘 - 源頼朝の姪
- 正室:西園寺掄子 - 西園寺公経の娘
- 妻:源有雅の娘
- 男子:深忠(1233-1268) - 聖護院14代門跡
- 妻:源重房の娘
- 男子:慈実(1238?-1300?) - 青蓮院11代門主
- 生母不明の子女
- 男子:行昭(1231?-1303)
- 男子:道智
- 男子:勝信(1236?-1287)
- 男子:道意
脚注
注釈
- ^ a b 当時の西園寺公経の影響力を疑問視する説[1]もある。
- ^ 父 道家、母 掄子はともに頼朝の同母妹 坊門姫の孫にあたり、頼経は父母双方から源氏の血を引いている。
- ^ 仲恭天皇の追諡は明治3年(1870年)7月の太政官の布告による。
- ^ 近衛家実の娘・長子を中宮としていた後堀河天皇は道家の家実排除と関白就任(安貞二年の政変)を快くは思っておらず、将来的には後堀河天皇が譲位をして院政を行うことが決まっていたにも関わらず、道家は彗星の出現などを口実として天皇の抵抗や幕府の反対意見を排して譲位の日程を強引に定め、これまで道家に好意的であった天皇生母の北白河院でさえも道家が外祖父になりたいがために譲位を強行したと批判したという(『民経記』貞永元年閏9月28・29日条)[2]。
- ^ 当時、後鳥羽法皇は死去していたが、順徳上皇は佐渡で健在だった。
- ^ 近年、雅成親王ではなく、忠成王の誤りとする説もある。雅成親王は順徳上皇の同母弟、忠成王は上皇の第五皇子であることから、いずれにしても順徳上皇・仲恭天皇亡き後にその皇統を継承し得る人物であった[6]。
- ^ 道家は自分と実経の失脚劇の背景に二条良実がいると信じて一切の所領を与えなかったが、道家の死の翌年に娘の佺子も亡くなると、道家の意向で佺子の遺領の未来領主に孫の一条家経を指定していたにも関わらず、家経の父である実経は道家の命を破って兄である二条良実に権利を譲渡して和解している。後に実経は関白に再任されるが、幕府に近い二条家と一条家との関係が改善されたことが要因として指摘されている[7]。
- ^ 『吾妻鏡』延応2年3月6日条の将軍頼経の妹が尚侍に就いた記事と『五代帝王物語』藤衣巻の竴子と内侍のかみ(尚侍)が(西園寺)太政大臣の娘を母とするとした記事から、頼経・竴子・佺子は西園寺公経を外祖父とする同母兄弟とする[8]。
出典
- ^ 本郷和人『人物を読む日本中世史 頼朝から信長へ』〈講談社選書メチエ〉2006年。ISBN 4062583615。
- ^ 曽我部愛「後高倉王家の政治的地位」『ヒストリア』217号、2009年。/所収:曽我部 2021, pp. 24–30
- ^ 石井清文『鎌倉幕府連署制の研究』岩田書院、2020年、190-196頁。
- ^ 『明月記』4月6・16日、5月14日条。
- ^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』臨川書店、2023年、91-94頁。ISBN 978-4-653-04715-5 。
- ^ 曽我部 2021, pp. 218–232, 「〈宮家〉成立の諸前提」.
- ^ 樋口健太郎『摂関家の中世 藤原道長から豊臣秀吉まで』吉川弘文館〈歴史文化ライブラリー〉、2021年、162ー163頁。
- ^ 高松百香「鎌倉期摂関家と上東門院故実-〈道長の家〉を演じた九条道家・竴子たち」服藤早苗 編『平安朝の女性と政治文化 宮廷・生活・ジェンダー』明石書店、2017年、184-185頁。
参考文献
- 曽我部愛『中世王家の政治と構造』同成社、2021年。ISBN 978-4-88621-879-7。
関連項目
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