上映中止と上映館削減?
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「樺太1945年夏 氷雪の門」の記事における「上映中止と上映館削減?」の解説
1974年3月7日、モスクワで開かれた東宝・モスフィルム合作映画『モスクワわが愛』の完成披露パーティーの席上、モスフィルム所長ニコライ・シゾフが東宝系劇場での『氷雪の門』の上映にクレームをつけ、なりゆき次第では『モスクワわが愛』の「公開にも支障が出そうな気配になっている」と、3月12日の東京新聞夕刊に報じられた。さらに、3月14日の同紙夕刊では、東宝の松岡功営業本部長、越塚正太郎興行部長らが12日に協議の結果、「ソ連との友好関係を損ねる恐れがある」と判断、「JMPへの劇場賃貸を断ることにした」と報じられた。 この東京新聞のスクープを後追いする形で、各紙の報道が始まっている。たとえば読売新聞の取材に対し松岡はソ連からの圧力を否定し、そもそも公開も決定したわけではなく検討段階だったが、「観客動員問題などで、こちらと条件がかみ合わないから断った」とコメントした。しかし実際は東宝系公開スケジュールは発表されており、JMPも宣伝ポスター5万枚を作成。各地のプレイガイドで単価700円の一般前売券の販売も始まっていた。また松岡は「日ソ友好の『モスクワわが愛』もあることですし、自主的にやめたということです」と含みのある説明もしている。『モスクワわが愛』のソ連ロケに参加した関係者の話では、ソ連では『氷雪の門』が話題になっており、「公開は好ましくない」という声が出ていたという。 (これらの記事の多くは、「東宝配給の予定だった」としているが、すべて誤りである。一連の東京新聞のスクープ記事では、「『氷雪の門』は東宝が配給するわけではない」「公開は配給形式ではなく、JMPが東宝系の映画館を借りて行う興行形式だ」と関係者が繰り返し述べている。その一方、「劇場賃貸」「映画館を借りて行う」という表現も不正確で、賃借料定額の貸館興行のように受け取られるおそれがある。現実には着券した製作協力券の枚数によって、興行側の取り分が増減する通常興行を企図していたことは、前節の製作協力券の配分方式により明らかである。製作会社JMPと東宝興行部の間で上映に関する内諾があった、と解すべきであろう。なお正式の上映契約には至っていない) 3月23日には、日本向けのモスクワ放送が、「ソ連国民とソ連軍を中傷し、ソ連に対して非友好的」という論評を流している。タス通信も「ソ連国民とソ連軍を中傷する反ソ映画」と論評した。 『氷雪の門』の監督村山三男は、この件の真相究明への協力を日本映画監督協会に3月20日に依頼、同協会事務局は関係方面の事情聴取を行なっており、その要点をまとめた記事が『日本映画監督協会の五〇年』(柿田清二、1992年)に載っている。事の焦点である圧力については、望月・守田は「ソ連当局から、この映画を上映すれば、「双方の友好関係が壊れる」旨の書簡が来たので上映出来なくなった、と(東宝から)言われた」と言い、それに対して東宝興行部の越塚らは「JMPは勘違いしている。上映を中止したのは、契約条件が整わなかったからだ。ソ連への配慮もあったが、文書など来た事実はないし、東宝が自発的にしたことだ。最終的には、JMPの方から白紙に戻したいとのことだった」と言う。また同書には、外務省東欧第一課の話として、2月14日に在日ソ連大使館より「『氷雪の門』の上映は、日ソ関係の発展に資するものではない。何等かの措置をとるよう要請する」との申し入れが同課にあったとあるが、その申し入れが文書によってなされたものか、それとも担当者限りの口頭申し入れであったか、またその内容が東宝側に伝わっていたかどうかは同書の記述では判然としない。その後、『氷雪の門』の東映パラス系公開が決定した時点で、「問題解決」とみて監督協会による調査は終了している。 4月5日には国弘威雄や、『モスクワわが愛』の日本側監督吉田憲二らが集まって座談会を行ない、その模様は「月刊シナリオ」1974年6月号に掲載されている。この中で吉田は、「東京のソ連大使館が内容を反ソ的とみているという話が当地に伝わってきており、代わりに『モスクワわが愛』の封切りさしとめの声も出ている」とする東京新聞モスクワ特派員の報告(3月12日夕刊)のうち、『モスクワわが愛』の封切りさしとめの部分は誤報と指摘している。そして、シゾフが『氷雪の門』について情報を得たのは、(大使館=外務省ルートではなく)在日ソ連通商代表映画部からの連絡に基づくものだろうと述べた。 さらに吉田は、3月7日(モスクワ時間)のパーティの様子についても触れた。このパーティは、将来の合作や友好関係について話し合う席であったが、シゾフの発言はその流れの中で、「一方でこうやって友好的に映画が出来上っていくかたわら、非常にソビエトにとっては面白くない映画が日本で上映されようとしている。それも東宝が配給するという。私たちはそれが本当だとしたら、ちょっと理解に苦しむところがある」との趣旨であったという。これを聞いた『モスクワわが愛』の東宝側プロデューサー安武龍は、『氷雪の門』に対して知識がなかったことから、「至急調べまして」回答しますと答えている。ところが、このことを聞きつけた東京新聞のモスクワ特派員が、シゾフの「疑問表明」を「圧力」だとして本社に報告、これを受けて東京新聞本社が東宝本社に取材、「東宝の営業部は驚いてモスクワに電話をかけ」、安武は帰国して現状を報告すると答えたが、先行して10日に帰国した吉田に「ワンサワンサと取材が」きて、翌々日のスクープ記事につながった、としている。 ここで吉田は、「日本の映画会社に対する上映中止要請だとすれば当然、ソビエトの映画委員会を通して文書で云ってこなければ正式の効力もないわけでしょう」と指摘、国弘も「東宝に対してソビエトから外務省を通じての正式な中止要請があったかどうか今以って明確ではありません」と言っている。これに対して、「月刊シナリオ」編集長松本孝二は、3月12日の東京新聞夕刊には東宝営業本部副本部長後藤進のコメントとして「ソ連側が神経質になっているのは確か。11日の営業会議でもその件を話し合ったが、私としては先方に刺激を与えるのはまずいと思う」とあることを指摘、「ソ連側」から何らかの意志表示はあったと結論づけている。この座談会は、東宝の興行者としての見識不足を批判して、何らかの処置を取るべきということでは一致している。 なお、「月刊シナリオ」1974年6月号には、親ソ派で知られる映画評論家山田和夫や映画監督山本薩夫が『氷雪の門』への見解を寄せている。このうち山本は、「作品は観ていない」と断ったうえで、シゾフが安武に話した言葉を「ソビエト側からの正式見解とするのは明らかに間違いだ」としている。そして、JMPが「30万人なりの観客動員を東宝に約束しておいて、それが出来なかったというから、東宝としては渡りに舟というと悪いが、「氷雪の門」の配給をよす」気になって手を引いたと思われるので、この問題を外国からの侵害という視点で捉えるのは不適切であり、映画の不出来による商業的判断と解すべきと口頭によりコメントした。山本は『氷雪の門』について東宝とJMPの間に配給契約があったと誤解しており、「30万人なり」という情報の出所も明らかにされていない。「前売券」の保証をめぐって東宝とJMPの間で争いがあったことは、国弘威雄も認めているが、この山本のコメントに対して国弘は「作品も見ていないのに」と激怒した(後述)。 この後、松岡らは、東映の岡田茂社長を訪ね、「東宝は社内事情で公開できないので宜しく」と依頼した。東映側は決定に先がけて、事前に在日ソ連大使館の参事官に話を通したところ、「たいへん結構です」と言われ、その報告を受けた「ソ連本国」からも岡田あてに感謝のメッセージが届いたという。岡田は、「営業面でもひとつのメドがついたので東映洋画部配給ということでJMPとの間で話がまとまった」と説明している。6月25日に東映とJMPの間で正式調印が行われ、同日東映本社で記者会見があり、東宝金子操・松岡功常務、東映岡田社長、池田静雄宣伝部長、畑種治郎営業部長、鈴木常承洋画部長、JMP三池代表取締役会長、望月専務、近藤常務、守田常務、村山監督らが出席。7月27日から札幌東映パラスで、8月17日から新宿東映パラス、浅草東映パラス、名古屋東映パラス、名古屋駅前毎日地下、福岡東映グランドで、9月上旬から大阪東映パラスと他一館でも公開が決定したと発表された。この時の発表では上映期間は説明がなかった。 ところが、公開直前になって、興行規模が大幅に縮小された。札幌東映パラスこそ7月27日から8月30日までの5週興行であったが、新宿東映パラスなど本州の上映館は全て削減され、札幌以外の北海道・九州では8月17日からの2週間ほどの劇場公開になった。だが、その理由は今だ明らかになっていない。東宝による上映中止を大きく取り上げた各紙も、東映による上映館削減の理由については報じていない(その後の報道でも、東宝と東映を混同して「配給会社がソ連の圧力に屈して全国公開が阻まれた」とする不正確な論調が多い)。
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