ルパンの誕生、文芸作家の道との訣別
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 16:38 UTC 版)
「モーリス・ルブラン」の記事における「ルパンの誕生、文芸作家の道との訣別」の解説
すでに中堅作家として名を成していたルブランであったが、それまで出版された10冊の総売上は2~3万部程度であり、職業作家としてはさらなる躍進が必要であった。そのため1904年には一幕ものの戯曲を数篇発表するなど新機軸に挑戦してみたものの、これは直ちに成功するものではなかった。それと同時期に、ピエール・ラフィットと部下のアンリ・バルビュスは当時隆盛を誇っていた雑誌「ル・プティ・ジュルナル(フランス語版)」の対抗馬となる雑誌「Je sais tout(フランス語版)」創刊号を1905年2月15日に発売。そして、イギリスで「シャーロック・ホームズシリーズ」の掲載により大商いとなっていた「ストランド・マガジン」の成功を踏まえ、これまで「Femina」誌で依頼通りの原稿を執筆してくれていたルブランに新たに「冒険短篇小説」の執筆を依頼する。ルブランの人生における最大の転機到来であった。 ルブランは「自動車」紙や「Le Petit Journal Illustré」に掲載された作品群を習作とし、特に苦労することもなく無意識的に、軽妙で魅惑的な「泥棒紳士」のアルセーヌ・ルパンを創造した。1905年7月15日に「Je sais tout」第6号で発表した読み切り「アルセーヌ・ルパンの逮捕」が大評判となり「Je sais tout」の売り上げも好成績だったため、ラフィットと マルセル・ルールー(「ジル・ブラス」誌で執筆していた彼もラフィットの会社に転職していた)ギュルス に滞在し、「自動車」紙の原稿にかかりきりであったルブランの元を8月に訪れてルパンの続編を書くように説得した。ルブランは「強盗は投獄されているんですよ」と反論したものの、ラフィットは「脱獄させろ」と応酬し、「続けろよ。フランスのコナン・ドイルになれるんだ。栄光を手にするんだ」とそそのかした。それでも「他のジャンルの文学に専念したい」と渋るルブランに対し、ラフィットは「そうかい?他のジャンルで頑張ったところでどうにもならないさ。心理小説は終わったんだ。今や『幻想と怪奇の文学』の時代だ(これは翌月の「Je sais tout」に掲載されるガストン・デシャン(英語版)」の論文のタイトルでもあった)」と返した。「大衆」小説作家に「身を落とす(ルブラン自身の言葉である)」事を嫌がるルブランの宿泊先をラフィットはほぼ毎日訪れ、「文学的な小説を書くだけでいい」と繰り返し頼み込み続けた。結果、経済的な理由もありルブランは続編を書くことにし、以後の作家人生のほとんどをルパンに注ぎ込むこととなった。ルパンの「最初の12の短篇」の原稿とともにルブランがパリに戻った後、11月15日発売の「Je sais tout」は次号でルパンシリーズの掲載を仄めかし、翌月号には「第一回ルパン懸賞」つきで「獄中のアルセーヌ・ルパン」を掲載した。1906年1月31日、離婚に伴う法的猶予期間が終了したことにより、晴れてルブランはマルグリットと正式に結婚した。新居はクルヴォー通り8番地のアパルトマンの6階であった(この時代、家賃は高層階に行くほど安い傾向があった)。5月、ルパン発表前夜に書いた戯曲「La Pitié」の上演がアントワーヌ劇場で行われたが、この作品は大失敗であり、上演は8回で打ち切られた。5月6日、劇場オーナーのアンドレ・アントワーヌは日記にこう記している。「モーリス・ルブラン氏の見事な戯曲『La Pitié』の(観客つき)総稽古が、昨日、さんざんな結果に終わると、作者は『よろしい、お客に何が必要かはよく分かった。真面目な劇作は諦めよう。これからは金を稼ぐためにこしらえますよ』と私に言った」。また、のちにアントワーヌはいくつかの著書の中でこうも回想している。「本質的で人間的、深く掘り下げた作品によって(戯曲作家としての)デビューを飾った」が、「見事な演技」にかかわらず「かなり冷ややかに迎えられた」、「『La Pitié』を是非とも(再度)上演したいと思った。とても価値のある作品なのに、観客が正当に評価しているように見えない。」「この失敗の後、作者は演劇を諦めて小説に専念し、アルセーヌ・ルパンによって富と名声とを勝ち取ることになる」。同月の「Je sais tout」には「アンベール婦人の金庫」が「第五回ルパン懸賞」とともに掲載されたが、その回での質問は「ルパンが対決する有名な探偵とは誰か?」であり、次号では「遅かりしシャーロック。ホームズ」が掲載された。結果、「Je sais tout」にはホームズを無断使用されたコナン・ドイルからの抗議文が送られてきた。一方のルブランはと言えばちょうど「ルパン対ホームズ」「奇巌城」というホームズを敵役とする長編二本を執筆中であり、以後「ホームズ」の名前はアナグラムにより変名されることになる。12月25日、「自動車」紙に「クリスマス」が掲載される。ルパンの成功を汲み、著者名の下には「翻訳権所有」の但し書きがルブランの作品としては初めて記述された。なお、翌1907年2月7日に掲載された「駆け落ち専門」が「自動車」紙への最後の寄稿となる。この頃からルブランは健康上の理由から自粛していた文士たちとの社交を再開する。3月、猟官運動が功を奏し、文芸家協会の委員に就任、5月27日の協会会合で「翻訳権に関する事項」の担当委員に任命される。5月発売の「Je sais tout」に掲載された「ハートの7」(予告ではルパンとガニマール警部に挟まれたルブランの写真が掲載された)ののち、6月10日に発表済作品の改稿ながらルパン最初の書籍となる短編集「怪盗紳士アルセーヌ・ルパン」がラフィットのソシエテ・ジェネラル・デディシヨン・イリュストレ社より出版された。「タイトルは短編集を出そうと思った時に頭に浮かんだ」とルブランは語っている。献辞はラフィットに捧げられた。「親愛なる友よ、君は、自分では決して挑戦しようと思わなかった道に僕を導いてくれました。僕は、底にこんなにも多くの喜びと文学上の魅力を見出したのだから、この第一巻の冒頭に君の名を記し、僕の君への友情と変わらぬ感謝の意を表すのが当然だと思います」。優れた商売人であったラフィットは初版は2200部に限定し、版を重ねて広告を兼ねる方法を選んだ。6月12日、ソシエテ・ジェネラル・デディシヨン・イリュストレ社と正式契約。初版2200部、価格は3.50フラン、印税は一部につき60サンチーム、契約期間は10年。但し書きは「モーリス・ルブラン氏はピエール・ラフィット氏に探偵風俗小説は全てを提供することを約束し、一方、ピエール・ラフィット氏はそれらを同条件のもと同じ双書で出版することを約束する。(中略)最低一年に一冊の割合で出版し、これらの書籍のうちの一冊の売上げが、発売後一年で三千部を上回らなかった場合には、ピエール・ラフィット氏は本契約を解除する権利を有する」というものであった。
※この「ルパンの誕生、文芸作家の道との訣別」の解説は、「モーリス・ルブラン」の解説の一部です。
「ルパンの誕生、文芸作家の道との訣別」を含む「モーリス・ルブラン」の記事については、「モーリス・ルブラン」の概要を参照ください。
- ルパンの誕生、文芸作家の道との訣別のページへのリンク