戯曲作家として
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「ジューナ・バーンズ」の記事における「戯曲作家として」の解説
バーンズは、商業的な成功よりも芸術的な成功を強調する素人演劇集団である「プロビンスタウン・プレイヤーズ」の一員であり、それは彼女の価値観にぴったりだった。プレイヤーズのグリニッジ・ヴィレッジにある劇場は、馬小屋を改装したもので、ベンチシートとちっぽけな舞台があるだけだった。バーンズによれば、「いつでも馬たちに返してあげられる」代物だった。しかしそこは、アメリカ演劇の発達に大きな役割を果たした。ピューリッツァー賞受賞者のスーザン・グラスペル(1876年 - 1948年)、エドナ・ミレイ、詩人ウォレス・スティーブンス(1879年 - 1955年)やセオドア・ドライサーの作品を上演したほか、ユージン・オニールのキャリアもここから始まった。1919年と1920年にはバーンズの1幕ものの戯曲が3作そこで上演された。 バーンズの戯曲は、1925年には4作目の『鳩』がスミス大学スタジオ・シアターで初演され、一連の短いレーゼドラマが、一部はバーンズの偽名であるリディア・ステップトゥーの名前で、雑誌に掲載された。これらの戯曲にはアイルランドの戯曲家ジョン・ミリントン・シングの強い影響が見られた。バーンズはシングの語法の詩的な性質とその幻影の悲観論との両方に惹かれた。批評家たちは、バーンズの戯曲、特にバーンズがシングのアイルランド方言を真似ようとした作品をシングの派生作品とみた。バーンズが後年、それらの作品を単なる「若書き」として廃棄したところを見ると、本人もそう思っていたのかもしれない。しかし、これらの定型的で不可思議な初期の戯曲も、内容においては、プロビンスタウンの他の戯曲家仲間たちのものよりも実験的ではある。バーンズの戯曲『大地から来た三人の男』に対して、『ニューヨーク・タイムズ』のアレクサンダー・ウールコットはこう評した。「作者が意図するもの、かりにそれがあったとして、それを観客がまったく知らされないままで、芝居がどれほど興味深く、本質的に劇的であり得るか、ということを示す実例であり、観客は、手掛かりがあいまいに示されるだけで謎が明かされないままに進む寸劇の一語一語に耳を傾けながら、固唾をのんで座っていた。」。
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