戯曲・演劇
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1957年に安部公房、岡本太郎、大西巨人、竹内実、長谷川四郎らと、総合芸術・共同制作を目指す「記録芸術の会」結成し、1958年に歴史ものの長編戯曲『泥棒論語』を執筆。その年の秋に舞芸座によって俳優座劇場で公演され、第1回週刊読売新劇賞受賞。 1962年に劇団俳優座から公演台本として依頼された「爆裂弾記」を発表したが、公演スケジュールに間に合わず、代わりに1963年に劇団演劇座などの有志によって俳優座劇場で公演された。戯曲について和田芳恵は「壮士は書くが浩然の気を感じさせる明治調がこの戯曲のようにあらわれたものが、これまでなかったような気がした」と評したが、公演の入りはガラガラという状態だった。 続いて1963年に「ものみな歌でおわる」を日生劇場開場記念公演として書き下ろし、千田是也演出、水谷八重子、仲代達矢などの出演で公演したが大不評で、「ものみな不入りでおわる」と題した記事も書かれた。 「爆裂弾記」は1968年に劇団演劇座により明治百年批判公演として上演された。 1973年に長谷川四郎、佐々木基一、広末保、うえまつたかしの5人が「記録芸術の会」に続く新しい演劇活動を起こそうとして、演劇団体「木六会」を結成し、1974年に第1回公演で「ものみな歌でおわる」を六本木の俳優座で再演、千田是也一門の中堅、若手の俳優が演じ、満員の大盛況となった。木六会の第2回公演では、花田の提案で魯迅の「故事新編」を素材とした共同制作を行うこととし、4編のうち花田は「首が飛んでも-眉間尺」を執筆。しかしこの上演された1974年11月を前に花田は死去し、公演は追悼公演として行われた。 他に戯曲としては、ラジオドラマ「わたしは貝になった」、テレビドラマ「就職試験」「佐倉明君伝」がある。
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