ペリリューのジャンヌ・ダルク伝説
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「ペリリューの戦い」の記事における「ペリリューのジャンヌ・ダルク伝説」の解説
「ペリリュー島の激戦場で、若い日本女性がアメリカ軍海兵隊に機関銃を乱射して86名を殺傷したのちに玉砕した」という伝承がペリリュー島で語り継がれているとされる。それを最初に日本で紹介したのは戦記作家の児島襄とされ、「最後の1兵は女性だった、と語り伝えられるペリリュー島日本守備隊の奮戦記」という戦記文で、その場に居合わせたアメリカ軍海兵隊員スキー軍曹から目撃談を聞いたバート・尾形という日系人の「彼女は丘の上に孤立し、三方から海兵隊に包囲された。そのとき、彼女は機関銃を乱射した。その機銃座の抵抗は激しく、海兵隊の死傷は86人をかぞえた。スキー軍曹も攻撃隊に加わっていたが、あまりにも激しい射撃に斜面にへばりついた」「ついに決死隊が募集され、戦車の援護射撃で相手の注意をひいている間に、背後に迂回しやっと射殺した。勇敢な日本兵に敬意を表すべく近づくと、破れた軍服からのぞく肌の白さに女性とわかり、深い感銘を受けた」という証言を紹介している。その後にこの女性は「ペリリューのジャンヌ・ダルク」とも呼ばれ、書籍が出版されたり、伝承に基づいたテレビドラマ『命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』が放映されたりした。 児島の調査により、この伝承のモデルとなった女性はコロール島で開業していた一流料亭「鶴の屋」の芸者「久松」と判明している。「久松」は独立歩兵第346大隊長引野通廣少佐と恋仲になったが、アメリカ軍の侵攻が迫り、日本人居留民は日本内地への引揚が命じられると、「久松」は引野と「一緒に死にたい」と言い張って内地への引揚を拒否している。やがて引野は独立歩兵第346大隊を連れてペリリュー島に派遣されることとなったが、「久松」は引野と一緒に行くと引かず、結局引野は「久松」を当番兵として連れていくことにしたという。「久松」は女性とわからないように髪を切り、男物の軍服を着たが、その様子を同じ独立歩兵第346大隊ながらコロール島に残ることとなった中尾清元曹長が見ており、児島に「戦闘帽の下の美しい黒目をうるませて別れを告げた久松の姿が今も目に焼き付いている」と話している。 歴史家の秦郁彦もこの伝承について調査をしており、ペリリュー島についての著作もある元日本陸軍軍人舩坂弘が取材の過程で、第2海上遊撃隊小隊長の高垣少尉らがペリリュー島のガルコル波止場で上陸しようとしていた「久松」を見つけ、引野と「久松」の関係を知っていた高垣らは事情を察しつつも、「久松」の身を案じて見過ごすことはできないと、すぐにコロール島に引き返すように説得したが、そこに現れた引野が高垣を殴って「久松」を上陸させたという話を、その場に居合わせた高垣の部下将兵から聞いたと著書で記述している。また、秦はコロール島にも赴き、地元のガイドで日系人のイチカワ・タダシからも「久松」に関する証言を得ている。その証言によると「「久松」の出身は不明であるが、「久松」は源氏名で本名は梅野セツであり、色白で丸顔の長髪で身長が5尺(151㎝)ぐらい」「父親ぐらいの将校(引野と久松の年齢差は30歳ぐらい)に身請けされ、その将校を追ってペリリュー島に渡ったという噂を聞いたが、久松の性格なら不思議はないと思った」「身の回りのものを同輩に分け、理髪店で髪を切り、誰かにゲートルの巻き方を習い、地下足袋を履いて出陣した」「彼女は機関銃でアメリカ兵を撃ちまくり、重症のまま病院に運ばれて2週間後に死んだとペリリュー島の住人から聞いた」ということであった。 また歩兵第二連隊所属 森島一等兵は、将校専属の慰安婦一名が最後まで島に残り、軍服を着用して釣りをする姿を目撃している。同連隊生還者の飯島上等兵も、米軍がたてた十字架墓を島北端の電信所付近(日本軍呼称水戸山)で目撃している。投降後、飯島が米兵に聞くと、手榴弾を投擲して米軍を足止めした日本軍女性兵士の墓という回答があった。ペリリュー島で最後まで生き残った山口以下34名の将兵のなかにも、軍服姿の女性が海岸で釣りをしているのを目撃した者もおり、戦後に捕虜になったときにアメリカ兵から「北地区で最後まで戦って死んだ女兵士がいたそう」という噂を聞かされて思い当たるふしがあったという。 しかし、どの証言にしても伝承の域は超えず、秦はアメリカ海兵隊やその戦友会にも取材したが成果はなく、また、引野と戦死数日前まで行動を共にしながら、引野から、大隊の功績名簿を持ってコロールの司令部に戦況を報告するよう命令されて生還した大隊本部人事係宮本茂夫軍曹の遺稿にも、当番兵として引野に寄り添っていたはずの「久松」に関する話は一切出てこない。引野は「私は祖国のためにペリリューを守り抜いて死ぬ」と断言しており、部下将兵からの信頼も厚く、秦は引野が女連れであれば、ここまで部下将兵に信頼されていなかったのではとの思いを抱いている。引野は宮本をコロールに出発させたあと、1945年9月28日頃に籠っていた水戸山の陣地から出撃して南西中央高地奪還を試みて突撃したが、アメリカ軍の砲火で負傷し、その後に自決したと推測されている。結局「久松」がペリリュー島に渡って戦って戦死したという確証は得られなかったが、「久松」こと梅野セツとコロールで親交があった従軍看護婦が2008年時点で健在ということが判明し、秦はその看護婦から「久松」の写真を入手し、実在については確認している。 これら女性兵士に関する諸証言の基となった可能性のある3つのエピソードが存在する。 ペリリューの戦いが始まる2ヶ月前のサイパンの戦いをレポートした前節上掲ロバート・シャーロッド著「サイパン」1951年邦訳出版(訳者中野五郎)p307に、サイパンの在留邦人女性がアメリカ軍部隊に向け小銃を乱射し、最後に足を撃ち抜かれ野戦病院に収容された話が掲載されている。 同じくサイパンの戦いで自決を試み重傷を負うもアメリカ軍に救助された従軍看護婦の菅野静子(菅野は戦闘に参加していないが鉄帽を被っていたため女兵士と誤認された)が“サイパンのジャンヌ・ダルク”と1944年7月25日付ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンで報道されたことが週刊新潮昭和34年8月24日号に掲載されているそうである(出典1959年菅野著「サイパン島の最期」編集後記) エニウェトクの戦いで椰子の樹上からアメリカ兵を狙撃した日本軍の女性兵士がいた。その女性兵士は捕虜となって空母フランクリンに乗せられてハワイの捕虜収容所に運ばれたとニューヨーク・タイムズに報道されている。
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