ペリリューのジャンヌ・ダルク伝説とは? わかりやすく解説

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ペリリューのジャンヌ・ダルク伝説

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/16 05:31 UTC 版)

ペリリューの戦い」の記事における「ペリリューのジャンヌ・ダルク伝説」の解説

ペリリュー島激戦場で、若い日本女性アメリカ軍海兵隊機関銃乱射し86名を殺傷したのちに玉砕した」という伝承ペリリュー島語り継がれているとされる。それを最初に日本紹介したのは戦記作家児島襄とされ、「最後の1兵は女性だった、と語り伝えられペリリュー島日本守備隊奮戦記」という戦記文で、その場居合わせたアメリカ軍海兵隊スキー軍曹から目撃談聞いたバート尾形という日系人の「彼女は丘の上孤立し三方から海兵隊包囲された。そのとき、彼女は機関銃乱射した。その機銃座の抵抗激しく海兵隊死傷86人をかぞえた。スキー軍曹攻撃隊に加わっていたが、あまりにも激し射撃斜面にへばりついた」「ついに決死隊募集され戦車援護射撃相手注意をひいている間に、背後迂回しやっと射殺した勇敢な日本兵敬意を表すべく近づくと、破れた軍服からのぞく肌の白さ女性とわかり、深い感銘受けた」という証言紹介している。その後この女性は「ペリリュージャンヌ・ダルク」とも呼ばれ書籍出版されたり、伝承基づいたテレビドラマ命ある限り戦え、そして生き抜くんだ』が放映されたりした。 児島調査により、この伝承のモデルとなった女性コロール島開業していた一流料亭の屋」の芸者久松」と判明している。「久松」は独立歩兵346大隊長引野通廣少佐恋仲になったが、アメリカ軍侵攻迫り日本人居留民日本内地への引揚命じられると、「久松」は引野と「一緒に死にたいと言い張って内地への引揚拒否している。やがて引野独立歩兵346大隊連れてペリリュー島派遣されることとなったが、「久松」は引野一緒に行くと引かず結局引野は「久松」を当番兵として連れていくことにしたという。「久松」は女性わからないように髪を切り、男物軍服着たが、その様子を同じ独立歩兵346大隊ながらコロール島に残ることとなった中尾清元曹長見ており、児島に「戦闘帽の下の美し黒目をうるませて別れ告げた久松の姿が今も目に焼き付いている」と話している。 歴史家秦郁彦この伝承について調査をしており、ペリリュー島についての著作もある元日陸軍軍人舩坂弘取材過程で、第2海上遊撃隊小隊長高垣少尉らがペリリュー島のガルコル波止場上陸しようとしていた「久松」を見つけ、引野と「久松」の関係を知っていた高垣らは事情察しつつも、「久松」の身を案じて見過ごすことはできないと、すぐにコロール島に引き返すように説得したが、そこに現れ引野高垣殴って久松」を上陸させたという話を、その場居合わせた高垣部下将兵から聞いた著書記述している。また、秦はコロール島にも赴き、地元ガイド日系人のイチカワ・タダシからも「久松に関する証言得ている。その証言によると「「久松」の出身不明であるが、「久松」は源氏名本名梅野セツであり、色白丸顔長髪身長が5尺(151)ぐらい」「父親ぐらいの将校引野久松年齢差30歳ぐらい)に身請けされ、その将校追ってペリリュー島渡ったという噂を聞いたが、久松性格なら不思議はない思った」「身の回りのものを同輩分け理髪店で髪を切り、誰かゲートル巻き方習い地下足袋を履いて出陣した」「彼女は機関銃アメリカ兵撃ちまくり、重症のまま病院運ばれ2週間後に死んだペリリュー島住人から聞いたということであった。 また歩兵第二連隊所属 森島一等兵は、将校専属慰安婦一名最後まで島に残り軍服着用して釣りをする姿を目撃している。同連隊生還者飯島上等兵も、米軍がたてた十字架墓を島北端電信付近日本軍呼称水戸山)で目撃している。投降後、飯島米兵聞くと、手榴弾投擲して米軍足止めした日本軍女性兵士の墓という回答があった。ペリリュー島最後まで生き残った山口以下34名の将兵なかにも軍服姿の女性海岸釣りをしているのを目撃した者もおり、戦後捕虜になったときにアメリカ兵から「北地区最後まで戦って死んだ兵士いたそう」という噂を聞かされ思い当たるふしがあったという。 しかし、どの証言にしても伝承の域は超えず、秦はアメリカ海兵隊やその戦友会にも取材した成果はなく、また、引野戦死数日前まで行動を共にしながら引野から、大隊功績名簿持ってコロール司令部戦況報告するよう命令され生還した大隊本部人事宮本茂軍曹遺稿にも、当番兵として引野寄り添っていたはずの「久松に関する話は一切出てこない。引野は「私は祖国のためにペリリュー守り抜いて死ぬ」と断言しており、部下将兵からの信頼厚く、秦は引野が女連れであればここまで部下将兵信頼されていなかったのではとの思い抱いている。引野宮本コロール出発させたあと、1945年9月28日頃に籠っていた水戸山の陣地から出撃して南西中央高地奪還試みて突撃したが、アメリカ軍砲火負傷しその後自決した推測されている。結局久松」がペリリュー島渡って戦って戦死したという確証得られなかったが、「久松」こと梅野セツコロール親交があった従軍看護婦2008年時点健在ということ判明し、秦はその看護婦から「久松」の写真入手し実在について確認している。 これら女性兵士に関する証言の基となった可能性のある3つのエピソード存在するペリリューの戦いが始まる2ヶ月前のサイパンの戦いレポートし前節上掲ロバート・シャーロッド著「サイパン1951年邦訳出版訳者中野五郎)p307に、サイパン在留邦人女性アメリカ軍部隊に向け小銃乱射し最後に足を撃ち抜かれ野戦病院収容された話が掲載されている。 同じくサイパンの戦い自決試み重傷を負うもアメリカ軍救助され従軍看護婦菅野静子菅野戦闘参加していないが鉄帽被っていたため女兵士誤認された)が“サイパンジャンヌ・ダルク”と1944年7月25日付ニューヨーク・ヘラルド・トリビューンで報道されたことが週刊新潮昭和34年8月24日号に掲載されているそうである(出典1959年菅野著「サイパン島最期編集後記エニウェトクの戦い椰子樹上からアメリカ兵狙撃した日本軍女性兵士がいた。その女兵士捕虜となって空母フランクリン乗せられハワイ捕虜収容所運ばれたとニューヨーク・タイムズ報道されている。

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