ペリリュー島の島民
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 00:22 UTC 版)
「ペリリューの戦い」の記事における「ペリリュー島の島民」の解説
ペリリュー島には1943年6月末の段階で民間人1,060名(日本人160名、朝鮮人1名、現地住民899名)が平地の多い南部を中心に居住していたが、ミッドウェー海戦後の空母不足を島嶼基地航空部隊で補う方針が採られ、飛行場拡充・防備の強化に伴い防諜の観点から、1943年9月から1944年8月にかけて島民はパラオ本島とコロール島に疎開させられたので、戦闘による死傷者は出なかった。 現地住民の被害が少なかったことは、美談として毎日新聞のコラムなどで掲載されたといわれる(毎日新聞社から出版された舩坂弘の著作「サクラサクラ」1966年か)。 陣地構築にかり出された島民たちはすっかりと日本兵と意気投合し、中川は島民の代表から「一緒に戦わせて欲しい」との申し出を受けたが、中川は「貴様らと一緒にわれわれ帝国陸軍が戦えると思うか!」と拒否している。島民は、見せ掛けの友情だったのかと失意の中、ペリリュー島北部のガラコル波止場で疎開のために日本軍が準備した大発動艇に乗り込んだが、大発が島を離れた瞬間、その地区の日本兵全員が手を振って浜へ走り出てきた。中には軍帽を振ったり、陣地構築作業中に一緒に歌った即興の歌を合唱しながら見送る兵士たちもいた。その様子をみた島民たちは、日本軍に抱いた不信感は誤解であり、信頼に足る日本軍人たちであったと理解したという。 戦後、疎開させられた島民の一部は、南部が廃墟となったため北部に帰ってきて定住したが、戻れなかった島民と子孫1,600名が、土地所有権の絡みでペリリュー出身であると主張している。 当時の日本による教育を受けていた島民は現在でも日本語を話すことができ、また単語単位であれば若者にも日本語が通じる場合がある。 日本からの援助で購入されたコロールとの連絡船は、「YAMATO」と命名されている。また、ペリリューに桜は咲かないが、日本をイメージする「サクラ」という言葉には人気があり、スポーツチームの名前等にも使用されている。
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