ハッスル参戦
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2004年1月から、小川はPRIDEを主催するドリームステージエンターテインメント(DSE)と、主戦場とするZERO-ONEが共催して始まった「ハッスル」に登場を果たす。当時のZERO-ONEの掛け声であった「3、2、1、ゼロワーン!」を流用した「3、2、1、ハッスル!、ハッスル!」という掛け声とポーズが有名となり、当時プロ野球選手の清原和博や当時自民党幹事長であった安倍晋三もこのポーズを行っている。 ハッスル開催に先立つ2003年暮れ、1月から本格的にDSEが立ち上げるエンターテインメントプロレス(ショー的なプロレス)・ハッスルの記者会見が行われ、ある記者の「ハッスル1開催(2004年1月4日)の直前にPRIDEがあるが、それが終了した直後にハッスルが開催されることに興行的に何か影響は無いか?」という質問に対して、DSE社長の榊原信行が「PRIDEは既に何度か開催しておりますし、ハッスルに関してはプロレス(ショー)という事なんで…」とプロレスを格下扱いした回答をしたため、壇上に同席していた小川が「ゴチャゴチャ言ってんじゃねぇオラァ!!何がハッスル1だよ。ふざけたこと抜かしやがってプロレスなめてんだろ、お前!あぁ⁉」とテーブルをひっくり返し、同席していた橋本の制止が無ければ殴りかからんとする暴挙に出たため、記者会見が中止になるという騒ぎで幕を開けた。 小川はハッスルの普及を目的に同年4月からのPRIDEグランプリに参戦、ステファン・レコと対戦し左フックでダウンを奪い肩固めによる一本勝ちし、ジャイアント・シルバにはマウントパンチでTKO勝ち。準決勝ではエメリヤーエンコ・ヒョードルと対戦したが、1R54秒腕ひしぎ十字固めで小川の一本負けとなった。小川は、勝っても負けても試合後はハッスルの宣伝に努め、観客と共にハッスルポーズの大合唱をした。ヒョードル戦は敗れはしたが、試合後に会場外で行われたハッスルPRイベントに集まったファンが熱烈な小川コールを送った。 PRIDEでの敗退後、高田総統に「54秒で負けたという理由で出場停止にしたらどうだ!」という言い分により、小川は54日間のハッスルへの出場停止となった。しかし、ハッスル5では小川直也ではなく「キャプテン・オー(後にジュードー・オー)」としてメインに出場した。 同年9月にシングルCD「ハッスル音頭」を発売し、テレビの歌番組にも出演する。なお、2005年6月には、同じシングルCD「勝手に侵略者」(テレビ東京系アニメ「ケロロ軍曹」の4代目エンディングテーマ曲)を岩佐真悠子とのデュエットで発売している。同年11月にはフォトエッセイ(写真集)「裸の選択」を発売。リング上だけでは分かり得ないプロレスラーの表情を伝えている。 2005年12月31日、「PRIDE 男祭り 2005」のメインイベントで吉田秀彦戦が行われた。この年の7月、突然の病気で亡くなった小川の戦友・橋本の入場曲である「爆勝宣言」の前奏が流れて登場、その後は小川のオリジナルテーマが流れるが、エレベーターを降り花道に足を踏み入れた瞬間、「爆勝宣言」に曲が変わった。前奏が鳴ると共に観客の驚きの声、そして「爆勝宣言」が場内に鳴り響くと観客達はハシモト(またはオガワ)コールを叫んだ。曲が変わった直後、小川は一瞬こみ上げるものがあり表情が崩れている。 試合は吉田に腕ひしぎ十字固めで見込み一本負けを喫したが、小川は試合後のリング上、マイクで実は試合序盤の吉田のヒールホールドで「足(の骨が)、折れちまったよ」と告白した(試合中に骨が折れる音をマイクが拾っている。)。最後には吉田自身の信念により拒否こそされたものの、まともに立てない状態ながらハッスルポーズを決め、締めた。このことに関しては吉田も後のインタビューで、「自分ならばあのような状態では戦えない」と語っており小川の力と根性に対しては一定の理解を示した。小川は吉田に対しては後のインタビューで、「あいつは勝ち負けが全てだが、頑張っているあいつの人生についても認めているよ」と理解していた。 2007年6月、ハッスルのストーリーでは高田モンスター軍に移籍。『セレブ小川』として活動し、卑劣な戦法や相手レスラーを罵倒する守銭奴キャラを見せ、観客から大ブーイングや「しょっぱい」コールを浴びる。高田総統から「ハッスルから休養させる」と命じられ、小川本人はそれを受理し一時的に離脱した。
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ハッスル参戦
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「ハッスル・マニア2005」でデビュー。リング名はレイザーラモンHGではなくHGである。衣装はこれまで着用していたものをベースに、プロレスに耐えうる仕様となっている。「ハッスル・マニア2006」などで着用していたホワイトバージョンもある。ハッスル軍ではエースという位置づけで、小川直也や大谷晋二郎ら先輩メンバーの離脱後も新生ハッスル軍の主力として活躍した。
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ハッスル参戦
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2008年7月27日よりハッスル参戦。高田延彦推薦枠として『ハッスルGP2008』に出場した。『ハッスルGP2008』1回戦で小倉優子が招聘した「こ♥り♥た♥ん」と戦う予定だったが突如、乱入したゼウスにフライパンで殴られて失神した。そのため、次の8月21日に2回戦進出決定戦でゼウスと戦うが敗れた。その後、高田モンスター軍に加入し、昇格した特命係長 島田工作員(旧・二等兵)から新人ということもあり、『小路二等兵』と命名された。9月17日の3対1のハンデ戦(相手・天龍源一郎)でハッスル初勝利を飾った。 2009年4月、パンチザドCのと自分との扱いに憤りを感じ、坂田亘と試合で負けた後、特命係長 島田工作員(旧・二等兵)の制裁に怒り、払い腰で高田モンスター軍を脱退宣言し、高田総統が最後のチャンスの意味で、6月25日の試合で坂田亘、アンジョー司令長官と3WAYマッチの試合を組んだが、試合中の島田工作員の制裁に怒り、坂田亘と一緒にアンジョー司令長官を攻撃し、決別逆十字で勝利。 6月27日の桐生大会で、坂田亘とタッグを組み、レイ大原、アンジョー司令長官と対戦し、レイ大原に払い腰の大技(黒部の太陽)で勝利し、元の小路晃の名で初勝利を飾った。 2010年、TAJIRIを中心とした団体「SMASH」に入団。 2011年1月、同月限りでプロレスラーとしての活動を停止し、総合格闘技に復帰することを宣言した。 しかし、総合格闘技への復帰は1試合のみで、4月22日開催のDEEP 53 IMPACTでの試合を以って現役を引退することを発表した。ラストファイトの対戦相手は三崎和雄。 2011年4月22日、DEEP 53 IMPACTで三崎と対戦し、2ラウンドに三崎のパウンドによるレフェリーストップ負け。試合後には引退セレモニーが行われた。 引退後は東京・高田馬場のラーメン店「渡なべ」での修行を経て、同年10月11日、富山市にラーメン店「つけめん えびすこ」を開店。店のTシャツ・タオルは宇野薫がデザインした。2014年11月には2号店として豚骨ラーメン専門店「とんこつ えびすこ」をオープンした。 また、DREAMやDEEPのリングなどでレフェリーおよびジャッジを務める。
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ハッスル参戦
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同年11月3日のハッスルマニアからハッスルへ参戦し、表面的にはシリアスなイメージの強い天龍だけに、エンターテインメント色の強いハッスルとは合わないのではないかという見方もある中、天龍は試合のみならずマイクも積極的に握っている。 2006年7月27日には6年ぶりとなるWARの大会「WAR FINAL 〜REBORN to FUTURE〜」が後楽園ホールにて行われた。 2007年6月、「ハッスルエイド2007」でレイザーラモンHGに敗れてモンスター軍を追われたが、翌月に浜松で開かれたハッスル24のメインイベントでハッスル軍に助太刀し、リーダーで2006年8月まで共闘していた坂田亘の要請を受けてハッスル軍に加入。10月、曙に酷似した「モンスター・ボノ」とハッスルで対戦。天龍もベテランとして若いメンバー達を支えつつ存在感を保ち続けた。2008年3月14日、リアルジャパンプロレス後楽園大会で初代タイガーマスクと初対戦した。以後も主にハッスルを主戦場としつつ他団体へも時折出撃する形で活動を続けてきたが、2009年の年末にハッスルが事実上活動を停止してしまったことから、天龍は主戦場となるマットを失ってしまった。
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