ジュニア世界ラリー選手権(JWRC)での活躍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 09:04 UTC 版)
「スズキ・スイフト」の記事における「ジュニア世界ラリー選手権(JWRC)での活躍」の解説
WRCの最下位クラスに位置するJWRCは現在R2車両のワンメイクであるが、スイフトの活躍した2010年まではグループA・クラス6、スーパー1600と呼ばれる最大1,640 ccの自然吸気エンジン搭載のFF車をベースとした車両のマルチメイクであった。⌀60 mmの吸気リストリクター採用、エンジンの最高出力発生回転数は9,000回転を下回ることと定められ、車両最低重量は950 kg(後に改定され1,000 kg)。そのため、各マシンの性能差が出にくくなっていた。車両販売価格は10万ドル以下で、カーボンなどの特殊な素材の使用は禁止され、その他にもタイヤの使用本数の制限やメカニックは1台につき4名までなど、徹底したコスト削減策がとられている。このカテゴリーにはマニュファクチャラーの直接参加は認められていないがサポートは許可されており、コストの問題などでWRC参加を躊躇している自動車メーカーが参加しやすいようにされていた。またドライバーには出場制限として年齢の上限が存在し、28歳以上のドライバーは出場できない。そのためドライバーの平均年齢は低く、若手の「WRCへの登竜門」的な存在となっている。 スズキおよびスズキスポーツは、JWRCに参戦するために初代スイフト(海外名・イグニス)をベースとした競技車両「イグニス・スーパー1600」を開発。2001年にアジアパシフィックラリー選手権(APRC)に実戦投入し、田嶋伸博/ジュリア・ラベットー組が第5戦のチャイナラリーにおいて、スーパー1600カテゴリーで優勝を果たし、二輪駆動車部門でトップの総合6位という高い成績を残す。そして2001年から始まったJWRCには、2002年から本格に参戦を開始した。 2002年 初参戦の第1戦モナコ・モンテカルロでは出場した3台中2台が完走し、うちニコラス・シェレが6位入賞という快挙を果たした。新チームの初戦は「完走すれば良い方」と言われるラリーにおいて、いきなりポイント圏内に入賞するという結果に関係者も驚いたという。またユハ・カンガスは9位であった。第2戦スペインはシェレ8位、カンガス11位。第4戦ドイツはシェレ3位、丹羽和彦9位。第5戦イタリアはシェレ7位、カンガス14位。しかし、第3戦ギリシャと最終戦イギリスでは出場した3台すべてがリタイアし、2002年シーズンのドライバースポイントランキングはシェレの8位が最高であった。 2003年 スズキは昨年の参戦データを元にマシンを改良。信頼性を高めると共に、206馬力であったエンジンを216馬力に強化する。チームは3台体制から4台体制になり、昨年の「手探り」の走りから一転して「攻め」の走りに入ったイグニスはその実力を発揮し始める。第1戦モンテカルロでウルモ・アーヴァが5位入賞。第2戦トルコでサルバドール・カニェヤスが2位、V-P・テウロネンが4位に入賞。第3戦ギリシャではダニエル・カールソンが2位、カニェヤスが3位、アーヴァが4位入賞。そしてついに第4戦フィンランドでカールソンがスズキと自身にとって悲願の初優勝を果たし、カニェヤス4位、アーヴァも5位に入った。第5戦イタリアではカニェヤスが2位、テウロネン4位。第6戦ではカールソン3位、テウロネン4位、カニェヤス5位、アーヴァ6位と4台すべてが入賞。最終戦イギリスでは再びカールソンが優勝を飾り、テウロネン3位、カニェヤスが4位に入賞する。2003年シーズンはドライバーズチャンピオンこそ逃したものの、カニェヤスがポイントランキング2位に入り、参戦した選手全員がランキング6位以上に入るという好成績を残した。 2004年 ベースとなるスイフト(イグニス)スポーツがホモロゲーション(公認申請)取得後に例外的に認められた10箇所の変更をすべて使い果たし、改良に限界が出てきたため、ベース車輌を兄弟車である5ドアモデルの欧州仕様のイグニス(フロントデザインは初代型シボレー・クルーズとほぼ同一)に変更する。これによりFIAには「別車両で新たに申請した」ことになり、中身はほぼ前年と同一のマシンであるが新たに改良をすることが可能となった。チームは昨年の勢いをさらに増し、第1戦モンテカルロ2位、第2戦ギリシャ優勝、第3戦トルコ優勝、第4戦フィンランド優勝、第5戦イギリス優勝、第6戦イタリア優勝、第7戦スペイン2位と猛威を振るった。中でも第3戦トルコと第6戦イタリアでは表彰台をスズキ勢が独占するという強さで、もはやイグニス同士で競い合っているような状態であった。この年のイグニスは、そのあまりの強さと速さから「Yellow Bullet(黄色い弾丸)」と呼ばれた。2004年シーズンのドライバーズチャンピオンはパー・ガンナー・アンダーソン。JWRC参戦からわずか3年。スズキ初のJWRCドライバーズチャンピオン誕生であった。 2005年 それまで実戦で培ってきた経験や実績を元に、新たに開発された2代目スイフトがベースの「スイフト・スーパー1600」を後半戦に試験的に導入。先代のイグニスと交替しながら戦うという、スズキにとって実験的なシーズンとなる。第1戦モンテカルロ2位、第2戦メキシコ優勝、第3戦イタリア2位、第4戦ギリシャ優勝、第5戦フィンランド2位、第6戦ドイツ3位、第7戦フランス3位、第8戦スペイン2位という成績であった。この年はダニ・ソルド(シトロエン・C2)がドライバーズチャンピオンを獲得し、スズキ勢のランキング最上位はガイ・ウィルクスの2位であった。またこの年のWRC第11戦・ラリージャパンにA6クラスでスイフト・スーパー1600が参戦、クラス1位、総合でも19位という成績を収めた。 2006年 マシンをイグニスから2代目スイフトにシフトして参戦。それまでの培ってきたノウハウを詰め込まれたスイフトは非常に高い戦闘力を見せ付けたが、それだけでは決して勝てないことも教えられたシーズンでもあった。第1戦スウェーデン優勝、第2戦スペイン4位、第3戦フランス2位、第4戦アルゼンチン優勝、第5戦イタリア3位、第6戦ドイツ6位、第7戦フィンランド優勝、第8戦トルコ優勝、第9戦イギリス優勝と結果だけみれば優秀であるが、まだスイフトの信頼性が確立されていなかったこともあってリタイアやノーポイントも多く、結果としてドライバーズチャンピオン獲得を逃した。また、この年もWRC第11戦・ラリージャパンにプライベートチームとして特別に参戦。A6クラス1位、総合37位を獲得した。 2007年 このシーズンだけ、ヨーロッパ以外での開催がなく世界(World)大会とならなかったため、名称がジュニア・ラリー・チャンピオンシップ(JRC)となる。昨年のデータを元に改良を加えられた2007年型スイフトは、スペック上はほとんど昨年と変わらないものの信頼性は格段に向上し、その強さを遺憾なく発揮する。第1戦ノルウェー優勝、第2戦ポルトガル優勝、第3戦イタリア優勝、第4戦フィンランド5位、第5戦ドイツ2位、第6戦スペイン優勝、第7戦フランス4位という成績を残し、パー・ガンナー・アンダーソンが2度目のドライバーズチャンピオンに輝いた。また、このシーズンもWRC第14戦・ラリージャパンに参戦。A6クラス1位、総合15位という成績であった。 2008年 このシーズンからスズキはSX4・WRCでWRC参戦を本格的に開始するが、この年より始まる世界的な経済不安に伴う自動車販売の不振でスズキも各事業の見直しを強いられ、シーズン終了後、わずか1年でWRC参戦休止を表明する。この年はシトロエン・C2とルノー・クリオが勢いを取り戻し、さらに前年チャンピオンのアンダーソンはJWRCの規定により出場できないなどのマイナス要因が重なり、スイフトは苦戦を強いられる。第1戦メキシコ2位、第2戦ヨルダン4位、第3戦イタリア優勝、第4戦フィンランド3位、第5戦ドイツ8位、第6戦スペイン6位、第7戦フランス4位という成績で終わる。 2009年 2009年以降のWRC参戦を休止したスズキであったが、JWRCのサポートは続けると表明。体制を再びJWRCに集中させることとなった。前年、シトロエン・C2で上位に食い込む活躍を見せたアーロン・ブルカルトを新たにチームに加え、新体制で挑んだ。第1戦アイルランド優勝、第2戦キプロス2位、第3戦ポルトガル優勝、第4戦アルゼンチン優勝、第5戦イタリア2位、第6戦ポーランド3位、第7戦フィンランド3位、第8戦スペイン2位と、好成績を残す。ドライバースチャンピオンこそ逃したが、ミハエル・コシュツシコがランキング2位、ブルカルトが3位と健闘した。 2010年 2011年からJWRCはWRCアカデミーに移行、フォード・フィエスタR2のワンメイクラリーとなることが決まったため、スズキやシトロエン、ルノーのJWRCマシンは、事実上2010年限りで撤退が決まった。最後のシーズンとなった2010年はスズキ・シトロエン・ルノーによる三つ巴の壮絶な戦いとなった。 第1戦トルコは、ライバルと目されていたシトロエン・C2のティエリー・ヌヴィルがデイ2でリタイアしたこともあり、終始アーロン・ブルカルトがトップをキープして優勝、チームメイトのカール・クルーダが6位となる。第2戦ポルトガルでも早々にシトロエン勢が脱落するが、代わってルノー・クリオのケビン・エヴィリングがトップに踊り出てそのまま優勝。クルーダは2位、ブルカルトは3位となる。第3戦ブルガリアはそれまで不調だったシトロエン勢が息を吹き返し、ヌヴィルとハンス・ウェイスJr.がワン・ツーフィニッシュを達成。一方のスズキ勢はJWRCの規定に従いブルカルトはこのイベントをパス。クルーダは5位に終わる。第4戦ドイツは前戦の勢いそのままにシトロエンのウェイスJr.が優勝、ブルカルトが2位に食い込み、クルーダも3位になるなど健闘した。第5戦フランスもやはりシトロエン勢が速かったが、プライベート参戦のジェレミー・アンシャン(スズキ・スイフト)が優勝、ウェイスJr.は2位止まりになる。一方、ブルカルトは5位に入賞してポイントランキング1位をキープした。この時点でのドライバーズポイントはブルカルト68、ウェイスJr.61。ドライバーズチャンピオンは最終戦のスペインにもつれ込んだ。ランキングトップのブルカルトのスイフトは、デイ2でコーナリング中にハブボルトを破損。ホイールが脱落しコースオフを喫してしまう。スーパーラリーで復帰は可能だったが、ランキング2位のウェイスJr.はこの時点で2位を走行しており、ウェイスJr.の逆転チャンピオンかと思われた。しかし、デイ3でウェイスJr.のC2はマシントラブルでストップ。修理して復帰したものの順位を3位に落とした。一方のブルカルトはその後はノートラブルで完走し4位入賞。最終ポイントはブルカルト80、ウェイスJr.76となり、4ポイント差でブルカルトが最後のJWRCドライバーズチャンピオンに輝いた。 ウルモ・アーヴァ車 2004年ラリーフィンランド パー・ガンナー・アンダーソン車 2004年ラリーフィンランド 2004年ラリーフィンランドで優勝したパー・ガンナー・アンダーソン コスティ・カタヤマキ車 2005年アクロポリスラリー(ギリシャ) スズキ・スイフト・S1600 2005東京モーターショー ヤン・モルダー車 2008年ラリーメキシコ ヤン・モルダー車 2008年ラリーイタリア-サルディニア フロリアン・ニーゲル車 2008年ラリーフランス-ツール・ド・コリス
※この「ジュニア世界ラリー選手権(JWRC)での活躍」の解説は、「スズキ・スイフト」の解説の一部です。
「ジュニア世界ラリー選手権(JWRC)での活躍」を含む「スズキ・スイフト」の記事については、「スズキ・スイフト」の概要を参照ください。
- ジュニア世界ラリー選手権での活躍のページへのリンク