『日本占領秘史』をめぐる論争
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「家永三郎」の記事における「『日本占領秘史』をめぐる論争」の解説
秦郁彦の講演をまとめた『日本占領秘史』下巻(1977朝日新聞社P102-103)に「戦争中に心ならずも…とその方々はおっしゃるのですが…軍部に迎合したり戦争を礼讃するような論文などを発表した人たちが、今度はアメリカ民主主義の礼讃者あるいは平和主義者に早変わりする。清水幾太郎とか家永三郎とかいう人たちはこの変節組です」という記載があったため、家永が厳重に抗議した。1977年12月、佐伯真光の立会いの元で秦は家永と交渉した。秦は表現の修正は応じるとしたが、家永は納得せず、1.問題部分の全面削除、2.再版に陳謝の意味で断り書きを入れる、3.初版についての措置を別に要求、4.応じなければ名誉毀損で告訴するとした。秦は『変節』の一例をあげた。 『新日本史』(1947冨山房) 「今後九重の奥より出でて大いに国家の経営に力を尽し給ふ御決意を示されると共に…天皇の御活動に驚くことのない様御諭しなされた」「(明治天皇は)開戦が決定せられるや、大奥入御の後も、御悲しみのためしばらく御言葉がなく、御目には御涙をたたえさせられていたと伝えられる」「無益なる戦争を中止して国民を戦火より救おうと決意遊ばされた天皇陛下の聖断により…降伏が通告された」『昭和の戦後史』(1976):天皇とマッカーサーの第1回会談 「開襟シャツスタイルの連合軍最高司令官マッカーサーの横に背の低いモーニング姿の日本人が並んで立つ写真が新聞紙に掲載されたのを見た国民は…」 家永は、「皇室への見方が徐々に変わったが、知識面で戦前の後遺症があり、当時は知的水準が低かった。節操が変わったのではない。」と反論した。会談は物別れに終わり、結局本書は絶版となり、1978年元日の読売・産経で報道された。秦によると、この際に家永が、自分は我慢してもいいが、教科書裁判の支援勢力が黙ってはいないだろう、と述べた。佐伯は、読売(1978年1月5日)に「戦前から戦後にかけて、家永氏の思想は180度の転換をとげている」との投書をのせ、家永は同紙(同年1月10日)に「文献をゆがめて引用」と反論の投書をのせた。その後、朝日ジャーナル(1978年1月20日)は家永の反論記事をのせたが、秦の投稿は掲載しなかったため、秦は産経(同年1月22日)で家永批判を続けた。家永は、マスコミ市民(1978年4月)で再び反論し、「新日本史」は「終戦直後に早変わりしておらず、軍部に迎合も戦争礼賛もしていない」と著した。この『変節論争』は、秦の批判は「昭和史を縦走する」(1984)と「現代史の争点」(1998)にまとめられ、家永の反論は「憲法・裁判・人権」(1997名著刊行会)にまとめられた。本書は、問題の箇所を改訂せずに1986年に早川書房より文庫化された。巻末の解説で金原左門は、秦は適切さが欠けており、家永は変節組の代表ではないと著した。秦は、1987年、家永第3次訴訟の国側証人として東京地裁で証言したときに、天皇観の極端な振幅を示した「新日本史」(1947)の例をあげ、「こういう振幅の多い方は、次代の青少年を教育する教科書執筆者には適当でない」と述べた。秦は、『太平洋戦争』(岩波書店、1968年)を「歴史研究者の立場から言って、いわゆる学術研究書とは言いにくいと考えている。」と証言し、その理由として、引用文献の不適切さ、感情過多の記述を挙げている。例として、非公開で審理され、誰が発行したか不明なハバロフスク軍事裁判の供述書が主体で、『文藝春秋』や『日本』といった雑誌の変名記事、関係のない成智英雄「平沢貞通は真犯人ではない」という論文の引用、あとがきに「日本有志の協力による米航空母艦乗組員四名脱走の快ニュースに接した日/家永三郎しるす」「沖縄県を平和の回復とともにアメリカに売り渡したのは、何という残酷な行為であったろう」という記述、しかも英語版ではそれを削除していることを挙げている。その他著書に、池田・ロバートソン会談における、日教組系のキャンペーンに乗った意図的な誤引用(「軍国主義意識を培養する」)を提示している。 1990年になり、家永は「私と天皇制・天皇」を書き留めたが、内容は死後に初めて公表された。 『一歴史学者の歩み』(2003岩波現代文庫版)……「新日本史」(1947)は皇室に関し敬語を用い、天皇中心史観とでもいうべき見方(ただし天皇不親政を日本君主制の伝統とする点で、戦前の天皇親政を「国体の本義」とする正統的皇国史観と同じではないが)が随所に散見する。(中略) このような天皇崇敬の意識は、十五年戦争の終結について昭和天皇の「聖断」を特筆することにもなっている。 鹿野政直は、この解説で、「戦前期に成長した一人の知識人にとって、「天皇制イデオロギーの呪縛」からみずからを解放してゆくことが、いかに困難であったかが示されるとともに、幾重の段階をへて(中略)昭和天皇への批判に至った経過」が記されていると述べている。秦郁彦は、平泉澄の自伝『悲劇縦走』によると、1934年に東条英機が来訪して平泉史観で国史教育をやりたい、ついては門下の人を教官に迎えたい、と懇請した。以後陸海軍の国史教官は平泉門下が独占するようになるが、家永が卒業前後に陸軍士官学校教官を志望、教授の公募に応じたが、成績は良かったが身体検査で落とされたことを『一歴史学者の歩み』は触れていないことを問題視している。これに関して家永は、自伝で「(平泉澄)先生の極端な日本主義には到底ついて行くことができなかった」「正気の沙汰と思われないような学風」と評していたが、内海秀夫は、家永が陸士を受験、成績は良かったが、健康上の理由で落とされたと証言している。家永は1977年に発表したエッセーでは、「実にいい就職口だ」と陸士を受験したが、はねられたと明かして、1988年9月、第三次訴訟で、「先生の恩師でもある平泉先生も、この陸士にはよく講義に行かれておりましたでしょうか。」「平泉先生の直門の内海先生とか西内先生とかいう方がいらしたかどうかも御存知ないですか。」「平泉先生が教授になっていないと思って受験したと言うんですか。」「どういう授業をするかということはおのずから承知の上で、教授の試験を受けたんでしょう。」と国側弁護士に問われ、「それは存じません。」「知りません。」「いい就職口だと思って受験したというだけです。」と答えている。国史学科後輩の時野谷滋は、学生数が20数人、皇国史観の重鎮で知られた主任教授の平泉澄教授が陸士の国体教育に絶大な影響力を持ち、弟子を次々に送り込んでいた実情を知らないはずがない、と述べている。
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