『日本占領秘史』をめぐる論争とは? わかりやすく解説

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『日本占領秘史』をめぐる論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 04:05 UTC 版)

家永三郎」の記事における「『日本占領秘史』をめぐる論争」の解説

秦郁彦講演をまとめた『日本占領秘史下巻1977朝日新聞社P102-103)に「戦争中心ならずも…とその方々はおっしゃるのですが…軍部迎合したり戦争礼讃するような論文など発表した人たちが、今度アメリカ民主義礼讃者あるいは平和主義者早変わりする清水幾太郎とか家永三郎とかいう人たちはこの変節組です」という記載があったため、家永が厳重に抗議した1977年12月佐伯真光立会いの元で秦は家永と交渉した。秦は表現修正応じるとしたが、家永は納得せず、1.問題部分全面削除、2.再版陳謝の意味断り書き入れる、3.初版についての措置別に要求、4.応じなければ名誉毀損告訴するとした。秦は『変節』の一例をあげた。 『新日本史』(1947冨山房) 「今後九重の奥より出で大い国家経営に力を尽し給ふ決意示されると共に天皇の御活動に驚くことのない様御諭しなされた」「(明治天皇は)開戦決定せられるや、大奥入御の後も、御悲しみのためしばらく御言葉がなく、御目には御涙をたたえさせられていたと伝えられる」「無益な戦争中止して国民戦火より救おう決意遊ばされ天皇陛下聖断により…降伏通告された」『昭和の戦後史』(1976):天皇マッカーサー第1回会談開襟シャツスタイルの連合軍最高司令官マッカーサーの横に背の低いモーニング姿の日本人並んで立つ写真新聞紙掲載されたのを見た国民は…」 家永は、「皇室への見方徐々に変わったが、知識面で戦前後遺症があり、当時知的水準低かった節操変わったのではない。」と反論した会談物別れ終わり結局本書絶版となり、1978年元日読売産経報道された。秦によると、この際に家永が、自分我慢してもいいが、教科書裁判支援勢力黙っていないだろう、と述べた佐伯は、読売(1978年1月5日)に「戦前から戦後にかけて、家永氏の思想は180度の転換をとげている」との投書をのせ、家永は同紙(同年1月10日)に「文献ゆがめて引用」と反論投書をのせた。その後朝日ジャーナル(1978年1月20日)は家永の反論記事をのせたが、秦の投稿掲載しなかったため、秦は産経(同年1月22日)で家永批判続けた。家永は、マスコミ市民(1978年4月)で再び反論し、「新日本史」は「終戦直後早変わりしておらず、軍部迎合戦争礼賛もしていない」と著した。この『変節論争』は、秦の批判は「昭和史を縦走する」(1984)と「現代史争点」(1998)にまとめられ、家永の反論は「憲法・裁判人権」(1997名著刊行会)にまとめられた。本書は、問題箇所改訂せずに1986年早川書房より文庫化された。巻末の解説金原左門は、秦は適切さ欠けており、家永は変節組の代表ではないと著した。秦は、1987年、家永第3次訴訟の国側証人として東京地裁証言したときに、天皇観極端な振幅示した新日本史」(1947)の例をあげ、「こういう振幅の多い方は、次代青少年教育する教科書執筆者には適当でない」と述べた。秦は、『太平洋戦争』(岩波書店1968年)を「歴史研究者立場から言っていわゆる学術研究書とは言いにくい考えている。」と証言し、その理由として、引用文献不適切さ、感情過多記述挙げている。例として、非公開審理され誰が発行した不明なハバロフスク軍事裁判供述書主体で、『文藝春秋』や『日本』といった雑誌変名記事、関係のない成智英雄「平沢貞通真犯人ではない」という論文引用あとがきに「日本有志協力による米航空母艦乗組員四名脱走の快ニュース接した日/家永三郎しるす」「沖縄県を平和の回復とともにアメリカ売り渡したのは、何という残酷な行為であったろう」という記述、しかも英語版ではそれを削除していることを挙げている。その他著書に、池田・ロバートソン会談における、日教組系のキャンペーン乗った意図的な引用(「軍国主義意識培養する」)を提示している。 1990年になり、家永は「私と天皇制天皇」を書き留めたが、内容死後初め公表された。 『一歴史学者歩み』(2003岩波現代文庫版)……「新日本史」(1947)は皇室関し敬語用い天皇中心史観とでもいうべき見方(ただし天皇親政日本君主制伝統とする点で、戦前天皇親政を「国体の本義」とする正統的皇国史観と同じではないが)が随所散見する。(中略) このような天皇崇敬意識は、十五年戦争終結について昭和天皇の「聖断」を特筆することにもなっている。 鹿野政直は、この解説で、「戦前期成長した一人知識人にとって、「天皇制イデオロギー呪縛」からみずからを解放してゆくことが、いかに困難であったかが示されるとともに幾重段階をへて(中略昭和天皇への批判至った経過」が記されていると述べている。秦郁彦は、平泉澄自伝悲劇縦走』によると、1934年東条英機来訪し平泉史観国史教育やりたい、ついては門下の人を教官迎えたい、と懇請した以後陸海軍国史教官平泉門下独占するうになるが、家永が卒業前後陸軍士官学校教官志望教授公募応じたが、成績良かった身体検査落とされたことを『一歴史学者歩み』は触れていないことを問題視している。これに関して家永は、自伝で「(平泉澄先生極端な日本主義には到底ついて行くことができなかった」「正気の沙汰思われないような学風」と評していたが、内海秀夫は、家永が陸士受験成績良かったが、健康上の理由落とされたと証言している。家永は1977年発表したエッセーでは、「実にいい就職口だ」と陸士受験したが、はねられたと明かして1988年9月第三次訴訟で、「先生恩師でもある平泉先生も、この陸士にはよく講義行かれおりましたでしょうか。」「平泉先生直門内海先生とか西内先生とかいう方がいらしたかどうか御存知ないですか。」「平泉先生教授になっていないと思って受験したと言うんですか。」「どういう授業をするかということはおのずから承知の上で教授試験受けたでしょう。」と国側弁護士に問われ、「それは存じません。」「知りません。」「いい就職口だと思って受験したというだけです。」と答えている。国史学後輩時野谷滋は、学生数が20数人皇国史観重鎮知られ主任教授平泉澄教授陸士国体教育絶大な影響力持ち弟子次々送り込んでいた実情知らないずがない、と述べている。

※この「『日本占領秘史』をめぐる論争」の解説は、「家永三郎」の解説の一部です。
「『日本占領秘史』をめぐる論争」を含む「家永三郎」の記事については、「家永三郎」の概要を参照ください。

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