大坂城 歴史・沿革

大坂城

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/05 05:46 UTC 版)

歴史・沿革

前史

上町台地の先端であるこの地のすぐ北の台地下は淀川の本流が流れる天然の要害であり、またこの淀川を上ると渡辺津から京都に繋がる交通の要衝でもあった。元々この辺りは1098年の難波古地図に描かれてるように、熊野一之王子(現在は天王寺区)、天王寺高津宮(現在は中央区)、東高津宮(元高津)(現在は天王寺区)、生国魂神社(現在は天王寺区)、坐摩神社(現在は中央区)、難波宮(現在も同じ位置)などがあった地であり古墳時代古墳もあったと言われている。戦国時代末期から安土桃山時代初期には石山本願寺があったが、1580年(天正8年)に石山合戦の講和直後に火災焼失した。この石山(大坂)の地は、西日本を押さえるにも優れていたため、『信長公記』によると信長はこの立地を高く評価し、跡地にさらに大きな城を築く予定であった[2]

石山合戦終結後の同地は織田信長の命令で丹羽長秀に預けられた後、四国攻めを準備していた津田信澄が布陣した。一時的な野戦的布陣ではなく、「千貫矢倉」などの建物もあった(『細川忠興軍功記』)ことから、一軍が長期駐屯できるほどの設備が構築されていたと推測される [注釈 2]。信澄は本能寺の変の発生後、丹羽長秀に討たれた。その後、清洲会議池田恒興に与えられるも、恒興がただちに美濃へ国替えとなったため、秀吉の領有となった。

安土桃山時代

豊臣期大坂図屏風に描かれた大坂城と城下の賑わい

1583年天正11年)から羽柴(豊臣)秀吉によって築城が開始され、羽柴家(豊臣氏)の本拠地となった。

豊臣大坂城普請は四期に区分され、第一期(天正11年から13年)に本丸を、第二期(天正14年から16年)に二の丸を、第三期(文禄3年(1594年)から5年)に総構(三の丸)を、第四期(慶長3年(1598年))に馬出曲輪と大名屋敷を整備した。

文禄・慶長の役間の文禄5年(1596年)に行われた和議交渉に際して、使饗応のため本丸御殿は大改修が行わた。本丸南の表御殿には「千畳敷」と称される大規模な殿舎が、またこれまで別個の御殿だった表御殿と詰の丸の奥御殿を繋ぐ「千畳敷の大廊下」も建てられた。これらの建築は慶長伏見地震で倒壊したとも言われたが、実際にはその後も存続している。また慶長9年には秀頼が「二階作の千畳敷」を新造したとあるが、これが殿舎を指すのか廊下を指すのかは不明である。なお表御殿のある本丸南側と奥御殿のある詰の丸との地表差は3メートル以上ある[3]。何れにしろ「千畳敷」「千畳敷の大廊下」も大坂の陣まで残り、『大坂冬の陣図屏風』『大坂夏の陣図屏風』双方に描かれている。

一般には大坂城が豊臣政権の本拠地と解されるが、実際には1585年(天正13年)には秀吉は関白に任ぜられ、翌1586年(天正14年)には関白としての政庁・居館として京都に聚楽第を建設して1587年(天正15年)の九州征伐からの帰還後はここに移り住み、更に関白を退いた後は京都の南郊に伏見城を築城して死ぬまで伏見において政務を執った。ただし諸大名による年賀の挨拶は、基本的に大坂城で受けていた。

江戸時代

1598年慶長3年)に豊臣秀吉が死去、1600年(慶長5年)の関ヶ原の戦い石田三成方の西軍が敗れた結果、徳川家康によって東軍への恩賞という形でその所領が分配されたため、220万石の大大名から65万7千400の一大名に転落した豊臣氏であったが、遺児の豊臣秀頼は依然として豪華絢爛たる大坂城を居城としていた。しかし、1614年(慶長19年)に勃発した大坂冬の陣において、講和条件として大坂城は惣構・三の丸・二の丸の破却が取り決められ、大坂城は内堀と本丸のみを残す裸城にされてしまう。秀頼は堀の再建を試みたために講和条件破棄とみなされ、冬の陣から4か月後の1615年(慶長20年)、大坂夏の陣で大坂城はついに落城し、豊臣氏は滅亡した。

落城後の大坂城は初め家康の外孫松平忠明に与えられたが、忠明に課せられた任務は大坂城下の復興であり、城そのものにはあまり手が加えられることはなかった。1619年元和5年)に忠明は大和郡山へ移封となり、江戸幕府大坂藩を廃止して大坂を幕府直轄領(天領)にすると、翌1620年(元和6年)から2代将軍徳川秀忠によって、豊臣色を払拭する [注釈 3]大坂城再築工事が開始された。大坂城再築工事は主に西国大名を中心に1620年(元和6年)からの第一期工事では47大名を動員して西の丸、二の丸北部・東部、三の丸、1624年(元和10年)からの第二期工事で58大名を動員して本丸一帯を、1628年寛永5年)からの第三期工事では57大名が動員されて二の丸南部、と実に3期足かけ9年にわたる普請によって1629年(寛永6年)に完成した。

幕府直轄の城である徳川大坂城の城主は徳川将軍家の歴代将軍自身であり、譜代大名から選ばれる大坂城代が預かり、近畿地方、および西日本支配の拠点となった。他に大坂城代を補佐する定番2名(京橋口定番・玉造口定番)も譜代大名から選ばれ、旗本で編制された幕府の常備軍である大番2組(東大番・西大番)に加勢する加番4名(山里加番・中小屋加番・青屋口加番・雁木坂加番)が大名から選ばれた。なお、大番と加番は1年交代制だった。城代は江戸時代を通じて70代の就任をみている。本来の城主である将軍は家光家茂慶喜の3名のみ大坂城に入城している。このうち在城期間が最も長いのは家茂で、大坂城にて生涯を閉じた唯一人の将軍である。

江戸時代には三度の落雷による損傷と修復を繰り返した。一度目は1660年7月25日万治3年6月18日)、城内青屋門近くにあった土蔵造りの焔硝蔵(火薬庫)に落雷して大爆発が起き、貯蔵中の2万1985貫600匁(約82.4t)の黒色火薬のほかに、鉛弾43万1079発、火縄3万6640本が焼失した[4]。爆発の威力はすさまじく、城内では29人が死亡、およそ130人が負傷した。天守や御殿、、橋など、多数の建造物が損壊。城外でも3人が死亡、家屋1481戸が倒壊し、多数の家屋の屋根が破損した。また、青屋門の扉が城から約14km離れた暗峠まで飛ばされたとの記録(「板倉重矩公常行記」)もある[5]。後に幕府は現存する石造りの焔硝蔵を建造した。二度目は1665年寛文5年)正月2日で落雷を天守北側の鯱に受けて天守を焼失した。天守は39年と短命だったが、本丸の三重櫓11基は以降200余年にわたり残存した。三度目は1783年天明3年)10月11日で、大手多聞櫓に落雷が直撃し全焼。幕府の財政難のため再建は1845年弘化2年)からの町人御用金による総修復まで待つこととなった。

江戸末期、慶応3年12月9日1868年1月3日)に発せられた王政復古の大号令の後、二条城から追われた前将軍徳川慶喜が大坂城に移り、居城していたが、慶応4年1月3日(1868年1月27日)に始まった鳥羽・伏見の戦い旧幕府軍の敗北が濃厚になると、同年1月6日(1868年1月30日)夜、慶喜は大坂城を脱出し江戸へ退却した。翌1月7日(1868年1月31日)には徳川慶喜征討大号令が発せられ、大坂城内に群衆が乱入。そして、新政府軍への大坂城の引き渡しが行われた1月9日(1868年2月2日)、本丸御殿の台所より出火し、本丸御殿・本丸の三重櫓11基・桜門・姫門など本丸のすべての門、山里曲輪の東菱櫓・西片菱櫓・山里門・極楽橋、二の丸の四番櫓・五番櫓・七番櫓・太鼓櫓・艮櫓・巽櫓・玉造門など城内の建造物のほとんどを焼失した。

近代

明治新政府は城内の敷地を陸軍用地に転用した。東側の国鉄城東線(現在の大阪環状線)までの広大な敷地には、主に火砲車両などの重兵器を生産する大阪砲兵工廠(大阪陸軍造兵廠)が設けられ、このため後の太平洋戦争時は米軍の爆撃目標となった。

  • 1870年(明治3年)、陸軍は午砲台を設置して報時業務を開始した。
  • 1885年(明治18年)、和歌山城二の丸より御殿の一部が移築され、「紀州御殿」と命名される。紀州御殿は、大阪鎮台(後の第4師団)の司令部庁舎として利用された。
  • 1887年(明治20年)以前に比定されている大坂並名古屋鎮台写真帖(宮内庁書陵部蔵)には玉造門の高麗門や西の丸の仕切門、複数の番所が写されていることから、これらの建物は戊辰戦争の戦火を免れ、明治初期、少なくとも鎮台が置かれるまでは現存していたことになる。
  • 1888年(明治21年)、大阪鎮台によって本丸桜門が復元された。
  • 1895年(明治28年)、天守台の東側に大手前配水場が建設され、地中に配水池が設置される。
  • 大正時代、城周辺の公園整備計画が持ち上がる[6]
  • 1928年昭和3年)、当時の大阪市長關一が天守再建を含む大阪城公園整備事業を提案し昭和天皇即位記念事業として整備が進められた[7][8]。集められた市民の募金150万円によって陸軍第4師団司令部庁舎[注釈 4]と復興天守の建設が進められた。天守閣の基本設計は波江悌夫が行い、再建工事は1930年(昭和5年)に始まり、翌年に完成した。この頃まで八角薪蔵や西の丸米蔵が残っていたと考えられる。
  • 1931年(昭和6年)、復興天守が博物館「天守閣郷土歴史館」として竣工する。第4師団司令部庁舎竣工。大阪城公園開園。
  • 1933年(昭和8年)、紀州御殿を「天臨閣(てんりんかく)」と改称した。
  • 1937年(昭和12年)11月3日、陸軍の命令で防諜のため、天守閣内へのカメラの持ち込みを禁止する。
  • 1940年(昭和15年)12月、8階の展望台を始めとして各階全ての窓が板で塞がれる。
  • 1942年(昭和17年)9月25日、天守への立ち入り、次いで城内への一般人の立ち入りが禁止される。
  • 1943年(昭和18年)、天守に中部軍防空情報隊(後、第35航空情報隊、司令部は桜門桝形の西側)が入る。
  • 1945年(昭和20年)8月14日、第8回大阪大空襲で大きな被害を受ける。この終戦前日に行われた空襲では大阪城の東側に広がっている大阪砲兵工廠が集中的に狙われ、周辺にも1トン爆弾が多数投下されている。近隣の京橋駅もその巻き添えとなり、避難していた乗客約500人が死亡する大惨事が起きている。大阪城では1868年(慶応4年)の火災で被害を免れていた二番櫓・三番櫓・坤櫓・京橋門・京橋門多聞櫓・伏見櫓が焼失し、青屋門が甚大な被害を受けている。このとき毎日新聞大阪本社屋上から撮影された「天守閣の背景に黒煙が濛々と上がる」光景は、後に「大阪夏の陣」などとも呼ばれた[9]が、天守閣に関しては天守台が損傷したものの破壊を免れた。このほか、一心寺に移築されていた豊臣時代の三の丸玉造門(長屋形式の黒門)も焼失している。

現代

終戦後城内の陸軍用地は占領軍に接収された。復興天守は現在も健在であり、大阪の象徴としてそびえ立ち、周囲には大阪城公園が整備されている。

  • 1947年(昭和22年)9月、占領軍の失火により紀州御殿を焼失した。
  • 1948年(昭和23年)8月25日、接収が解除される。その後は建物の修理が進められ、大阪城公園の再整備も始まり、外堀を含む広域が公園地となった。
  • 1949年(昭和24年)、天守内の博物館が再開される。
  • 1950年(昭和25年)のジェーン台風によりまたもや大きな損傷を受けた。
  • 1953年(昭和28年)から傷んだ櫓や空襲で崩れた石垣などの本格的な補修事業が開始された。併せて学術調査も行われ始めた。3月31日、大坂城跡が国の史跡に指定される。6月11日、大手門、千貫櫓、乾櫓など建造物13棟が重要文化財に指定される。
  • 1955年(昭和30年) 6月24日、大坂城跡が国の特別史跡に指定される。
  • 1959年(昭和34年)にはボーリング調査の結果、地下約9.3mの位置から石垣と思われる花崗岩が確認され、その地点を中心に3m四方の範囲を掘り下げたところ地下7.3mの位置で高さ4m以上の石垣が発見された。その翌年、発見された豊臣氏の大坂城本丸図との照合により、これが豊臣時代の遺構であることが確認された[10]。本丸内の司令部庁舎の旧施設は一時大阪府警本部の庁舎(後に大阪市立博物館)として使用され、石垣に囲まれた東外堀跡の南端部では拳銃の射撃訓練も行われた(大阪府警射撃場跡は玉造口土橋東側に現存)。大阪陸軍造兵廠跡は、長らく放置され、残された大量の鉄や銅の屑を狙う「アパッチ族」が跳梁し小松左京開高健の小説の舞台ともなった。
  • 1981年(昭和56年)、保存運動や文化庁の調査指示があったにもかかわらず、それらを無視した大阪市が大阪陸軍造兵廠旧本館を取り壊した。
  • 1983年(昭和58年)、「大阪築城400年まつり」に合わせ、国鉄大阪環状線に「大阪城公園駅」が新設され、大阪陸軍造兵廠旧本館跡地には大阪城ホールが開館された。弁天島を含む一帯には次々と大企業のビルが建ち並び、「大阪ビジネスパーク」が完成した。
  • 1995年(平成7年)12月から1997年(平成9年)3月まで天守には「平成の大改修」が行われた。
  • 1997年(平成9年)9月、天守が国の登録有形文化財に登録された。
  • 1996年(平成8年)、桜門と太鼓櫓跡石垣が修復され、さらに大阪陸軍造兵廠の敷地拡張のために大正初期、陸軍によって埋められた東外堀が総事業費25億円をかけ3年がかりで復元される(ただし、青屋口の周囲と玉造口の東側は復元されず)。
  • 2001年(平成13年)3月31日、大阪市立博物館が閉館し、翌4月1日に大阪歴史博物館が開館する。
  • 2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(54番)に選定された。
  • 2007年(平成19年)、大阪城の不動産登記に関して、建物としては未登記であり、登記上の土地の所有者は旧陸軍省であるということが判明した。実務上は、建物の所有者は大阪市[11]であり、土地は国からの借用であるということになっている[12]
  • 2014年(平成26年)、大阪市は、大阪城公園、大阪城天守閣(博物館)ほかの施設の指定管理者として、大阪城パークマネジメント共同事業体(代表者 株式会社 電通 関西支社(当時))を選定した。指定期間は2015年4月から2035年3月までである[13][14]重要文化財の『大坂夏の陣図屏風』(通称黒田屏風)は、大阪城天守閣の所蔵品である。
  • 2015年(平成27年)9月、多門櫓などが期間限定で公開された[15]
  • 2016年(平成28年)1月から約半年間、多聞櫓・千貫櫓・焔硝蔵を特別公開[16]
  • 2017年(平成29年)9月18日、天守閣の入館者数が1億人を突破した。10月19日、旧大阪市立博物館が改修され、複合施設「MIRAIZA OSAKA-JO(ミライザ大阪城)」として営業を開始する。
  • 2019年(令和元年)大坂城 太閤なにわの夢募金実行委員会」が発足。これは2013年3月27日から始まった「大阪城豊臣石垣公開事業」の実現のために結成された。事務局は大阪城パークマネジメント㈱および大阪市経済戦略局観光部観光課の担当をもって構成されパークマネジメント事務所内に置いた。

注釈

  1. ^ 古くは「おおざかじょう」と読まれていた。
  2. ^ 『フロイス日本史』の「本能寺の変の折、津田信澄は大坂城の塔 (torre) を見張っていた」という記述と符合する。
  3. ^ 豊臣色の大阪からの払拭は「川崎東照宮」の造営もあったが、成功したとは言いにくい。
  4. ^ 1940年、本庁舎は中部軍管区司令部に転用され第4師団司令部は現在の豊國神社鎮座地に移動した
  5. ^ 企業物価指数(戦前基準指数)で試算した場合、着工時点である1930年(昭和5年)の1万円は2021年(令和3年)の831万734円になる。計算式は次のとおり(なお、日銀ウェブサイトを参照[20])。
    735.5(令和3年企業物価指数)÷0.885(昭和5年企業物価指数)=831.0734(倍)
    したがって
    1,500,000(円)×831.0734(倍)=1,246,610,000(円)

出典

  1. ^ 宮上茂隆・松岡敏郎ら執筆、学習研究社編『歴史群像名城シリーズ 大坂城』学習研究社、2000年
  2. ^ 渡辺武ほか 編『大阪城ガイド』保育社、1983年、113頁。ISBN 4586506180 
  3. ^ 【大阪市立大学】豊臣秀吉が築いた大坂城の構造を確認~天守台の基礎を初めて確認。本丸周辺の高さや広がりを明らかに~(PDF)
  4. ^ 渡辺武『大阪城歴史散策』(保育社、1992年)59頁
  5. ^ 渡辺武『大阪城歴史散策』(保育社、1992年)60頁
  6. ^ 大阪の内外に出来る百万坪の大公園計画(大阪毎日新聞)
  7. ^ 大阪歴史博物館
  8. ^ 「大阪市の大礼記念事業概況」『官報』1928年10月3日(国立国会図書館デジタルコレクション)
  9. ^ 『空襲・敗戦・引揚』一億人の昭和史4 毎日新聞社 1975年
  10. ^ 大坂城豊臣石垣公開プロジェクト
  11. ^ 大阪城天守閣条例
  12. ^ 「城」の所有者は?「登記」から見える城の“歴史”…大阪城・天守閣「未登記」、土地「旧陸軍省」の“謎”
  13. ^ 大阪城パークセンターのサイト
  14. ^ 報道発表資料 大阪城公園パークマネジメント事業予定者(大阪城公園及び他5施設の指定管理予定者)を選定しました(大阪市サイト)
  15. ^ 国内最大級の多聞櫓公開 大阪城、19日から
  16. ^ 重要文化財「多聞櫓・千貫櫓・焔硝蔵」の内部を長期特別公開します!
  17. ^ 新発見「豊臣期大坂図屛風」の魅力 関西大学なにわ・大阪文化遺産学研究センター、2009年3月31日
  18. ^ 国宝 宝厳寺 唐門 滋賀県長浜市
  19. ^ 学研 『大坂城』1994年
  20. ^ 昭和40年の1万円を、今のお金に換算するとどの位になりますか?”. 教えて!にちぎん. 日本銀行. 2022年2月11日時点のオリジナルよりアーカイブ。2022年2月12日閲覧。
  21. ^ "大阪城天守閣に「寅」のパネル登場". 産経WEST. 産経新聞社. 23 December 2021. 2024年2月2日閲覧
  22. ^ "内田雅也が行く 猛虎の地(4)「タイガース」の由来は天守閣の虎!?". スポニチアネックス. スポーツニッポン新聞社. 4 December 2019. 2024年2月2日閲覧
  23. ^ 大阪城残念石
  24. ^ 巨石について
  25. ^ 大坂城 豊臣石垣公開プロジェクト
  26. ^ 各建物の年代は「時の刻印」(大阪城天守閣公式サイト)による。
  27. ^ 大阪市住居表示実施基準 - 大阪市市民局






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