農業・経済
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毎年春に皇帝自らが地方を巡行し、豊作を祈る籍田の儀式を執り行った。開墾と生産が奨励され、多くの水路が開削された。 また、天福銭という銅銭も鋳造されている。
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農業・経済
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アイユーブ朝の政治体制は安定していなかったものの、エジプト・シリアの経済は順調に成長を遂げていく。 アイユーブ朝では農産物の生産量を増やす様々な政策が実施され、農地の灌漑を容易に行うために運河の開削が行われた。アイユーブ朝時代のエジプトではナイル川を利用した農業が経済の基盤をなし、小麦、綿花、サトウキビの栽培が盛んになった。年間のナイル川の水量に異変が無い場合、エジプトではヨーロッパに比べて4-5倍多い量の小麦の収穫が見込まれ、シリアの1.5倍の税収が期待できた。アイユーブ朝時代にサトウキビ栽培は下エジプトから上エジプトに拡大し、砂糖商人やスルターン、アミールによる製糖工場の経営が盛んになり、砂糖は輸出品の中で重要な地位を占めるようになる。エジプト中部の農業地帯であるファイユーム地方は国家収入の財源となり、サラディンの治世にはエジプト内の全イクターからあがる収入の約8%がファイユーム地方のイクターで占められていたと考えられている。 十字軍勢力との抗争がアイユーブ朝とヨーロッパ諸国の経済関係の発展を妨げる事はなく、二つの異なる文化の接触は経済活動、農業をはじめとする様々な分野において双方に良い影響をもたらした。サラディン死後の後継者争いに勝利してエジプト・ダマスカスを勝ち取ったアル=アーディルは、エルサレムの回復と十字軍勢力の弱体化によってサラディンが宣言したジハードに意義が見いだせないと判断し、キリスト教勢力との共存・通商関係の構築を試みた。1202年にアル=カーミルとヴェネツィアの交渉により、ヴェネツィア船のアレキサンドリアやダミエッタなどのナイル川デルタの港湾都市への入港の許可と船舶の保護と引き換えに、ヴェネツィアはエジプト遠征を試みるヨーロッパ諸勢力に対して一切の援助を行わないことが約束された。アイユーブ朝の領土内にはヴェネツィア人の居住区が設置され、領事館の開設が認められる。ショウガ、アロエ、ミョウバン、そしてアラビア半島とインドからもたらされた香料、香水、香油がヨーロッパに輸出され、グラス、陶器、金銀細工などのイスラーム世界で製造された工芸品はヨーロッパで珍重された。アイユーブ朝と十字軍の間に生まれた交流を通して中東・中央アジアで生産された絨毯、カーペット、タペストリーが西方に紹介され、ヨーロッパ世界の衣服や家具の様式に新しい風を吹き込んだ。また、アイユーブ朝およびザンギー朝との交易によって、ゴマ、キャロブ、キビ、コメ、レモン、メロン、アンズ、エシャロットといった植物がヨーロッパにもたらされた。 イラク方面の混乱のため、東西交易においては紅海を経た海路が主要な経路になり、カイロ、アレクサンドリアは交易の拠点として繁栄する。紅海の安全を確保するために保安船の配備、中継基地の建設が実施され、紅海を通る商人はその恩恵に与ることができた。イエメンのアデンから紅海、ナイル川を経てカイロ、アレクサンドリアに至るルートではカーリミー商人が活躍し、彼らは香辛料、絹織物、陶磁器などの商取引に従事していた。アイユーブ朝は十字軍勢力と紅海交易の独占権を巡って争い、1183年にアイザーブ沖での戦闘でエジプト艦隊が十字軍艦隊を破った後、カーリミー商人が紅海交易を独占した。カーリミー商人は地中海方面の交易活動ではジェノヴァ、ヴェネツィアの商人と競合していたが、紅海では交易活動の独占権を有していたため、国際貿易においてアイユーブ朝は強力な地位を保っていた。そして、インド洋を経た交易活動も、カーリミー商人が半ば独占する形で展開されていた。カーリミー商人のインド交易の活性化に伴い、彼らから徴収した諸々の税金で国庫が潤された。アイユーブ朝からマムルーク朝にかけての時期にカーリミー商人の活動は活発化し、財政収入の増加にも貢献した。 国際貿易の発展に伴い、債権と銀行制度の基本的な原則も発達していった。ユダヤ人、イタリア人の銀行家はシリアに代理店を置き、経常的に営業する店舗には遠方の主人に代わって取引に従事する人間が駐在していた。商取引には手形が用いられ、シリア各地の銀行では預金制度が利用されていた。カーミルの治世には国家財政は厳格に統制され、彼の死後に国家予算の1年分に相当する貯蓄が遺されたと言われている。また、13世紀のイタリアではレヴァント交易(東方交易)に従事したイタリア商人によって、イスラーム諸国から支払手形の概念が導入される。「小切手」を意味するアラビア語のサック(ṣaqq)、ペルシア語のチェック(cheqq)が英語のチェック(cheque)の語源になったと考えられている。 安定した農業活動とカーリミー商人の活躍により、カイロはバグダードに代わる大都市への発展を遂げていく。
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