3-4歳時(1978-1979年)
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「アグネスレディー」の記事における「3-4歳時(1978-1979年)」の解説
1978年10月、京都開催の新馬戦で久保敏文を鞍上にデビュー。初戦は追い込みが届かず2着に敗れたが、2戦目で初勝利を挙げる。3戦目から騎手が河内洋に替わり、好位から抜け出して連勝した。河内は当時5年目の若手騎手であり、有力馬のベテランから若手への乗り替わりは、当時珍しい例であった。渡辺が初戦の敗戦に不満を覚えたことが原因ともされている。 翌1979年、クラシックを目標に1月の紅梅賞から始動したものの、同時期に歯替わりが上手く行かず食が細ったこともあり、緒戦から僅差ながら3連敗を喫する。クラシック初戦の桜花賞では2番人気に支持されたが、苦手の重馬場で6着に終わった。 しかし次走の東京4歳牝馬特別(オークストライアル)でシルクスキーの2着と好走、迎えた優駿牝馬(オークス)ではシルクスキーの骨折・戦線離脱により、桜花賞優勝のホースメンテスコ等を抑えて1番人気に支持された。レースでは道中5、6番手を進むと、直線で半ばで抜け出し、2着ナカミサファイアに2馬身半の差を付けて優勝。重賞初制覇をクラシックで果たした。河内にとってもデビュー6年目で初めての八大競走制覇であり、1976年の第37回競走で2番人気に推されながら6着に終わっていた全姉・クインリマンドの雪辱ともなった。 夏を休養に充て、秋はエリザベス女王杯を目標に据えた。神戸新聞杯、京都牝馬特別をそれぞれ3、5着として女王杯を迎える。当日は1番人気に支持されると、苦手とする不良馬場の中を直線で先頭に立った。しかしゴール手前でミスカブラヤに一気に交わされ、同馬から 1馬身半差の2着に終わった。年末の阪神牝馬特別も5着と精彩を欠いたが、オークス優勝が評価され、翌1月には当年の最優秀4歳牝馬に選出された。
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3-4歳時(1953-1954年)
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「ダイナナホウシユウ」の記事における「3-4歳時(1953-1954年)」の解説
1953年8月の小倉開催でデビュー。飯原農場の出身である石崎修を鞍上に、初戦こそ2着とクビ差の辛勝だったものの、以後11月に京都で出走を終えるまでレコード勝ち1回を含む無傷の8連勝を記録。内容はいずれもスタートで先頭に立ってからの逃げ切り勝ちというものだった。翌年からタマサンは「ダイナナホウシユウ」と改名され、騎手も所属厩舎の主戦騎手・上田三千夫に替わることになった。 石崎修 左から上田武司、上田清次郎、上田三千夫 4歳となった1954年3月に復帰。2着に大差(10馬身以上)をつけて逃げ切り勝ちを収め、このころより「褐色の弾丸列車」という異名が冠されはじめる。4歳クラシック初戦・皐月賞を見据えての東上戦でも大差勝ちを収めた。なお、この2戦の公式記録は「大差」であるが、山野浩一著『栄光の名馬』によれば、それぞれの着差は15馬身、24馬身とされる。 4月18日、10戦10勝の成績で皐月賞を迎えた。ここにおいて、3歳王者戦・朝日盃三歳ステークスや前哨戦のスプリングステークスを含め17戦14勝、目下11連勝中のタカオーとの初対戦となる。前夜から降雨があり当日の馬場状態は不良となったなか、タカオー1番人気、ダイナナホウシユウ2番人気の順となったが、両馬とも重馬場は苦にしないとみられ単勝の売上票数は4799対4668と僅差だった。スタートが切られるとダイナナホウシユウが常の通り先頭を奪い、道中は後続を引き離しての逃げを打つ。第3コーナーから最終コーナーにかけてその差は一時詰まったが、最後の直線に入るとダイナナホウシユウは再び後続を突き放し、2着オーセイに8馬身差をつけての優勝を果たした。道中、足下の悪さに何度もバランスを崩した(同馬に騎乗した高橋英夫の言)というタカオーは4着に敗れて連勝を11で止め、ダイナナホウシユウがこれに並ぶ無敗の11連勝を達成した。これは当時の国営競馬の前身・日本競馬会時代を含めると、クリフジ、トサミドリ、ウイザートに並ぶ最多連勝のタイ記録であった。 5月5日には東京優駿(日本ダービー)へのトライアル競走・NHK杯へ出走。1番人気に推されたダイナナホウシュウに対し、タカオーは人気を落として3番人気となったが、ダイナナホウシユウはスタートで出遅れて逃げることができず、終始好位でレースを進めたタカオーが勝利。ダイナナホウシユウは2着ミネマサにも半馬身遅れての3着と敗れ、タカオーに続き連勝を11で止めた。 5月23日、日本ダービーを迎える。前走で敗れたものの、ダイナナホウシユウは49.5パーセントという支持率で1番人気に推され、タカオーが2番人気でこれに続いた。馬場状態は稍重だったが、前座の競走では良馬場よりも4~5秒のタイムがかかる荒れた状態であった。 当時はバリヤーという遮蔽テープの後ろに全馬が整列し、テープが跳ねあがると同時にスタートという方式がとられていた。本競走のスタートが切られた瞬間、ダイナナホウシユウの右隣にいたブリンクヒルが、同じく左隣にいたホマレオーと接触するほど急激に横突し、やや立ち後れ気味だったダイナナホウシュウは左右から挟まれる形となり、大きく出遅れた。道中は各馬が状態の悪い馬場内側を避け、外めを走っていくなか、上田ダイナナホウシユウは荒れた内側を通って先団に進出していき、最終コーナーから先頭に立った。最後の直線では逃げ粘りを図ったが、半ばで失速してタカオーにかわされ、さらに同馬をかわして優勝したゴールデンウエーブから約5馬身差の4着と敗れた。タカオーは2着であった。 その後は休養に入り、9月に復帰して緒戦のオープン競走で勝したが、続く京都盃、オープン競走の2戦は、いずれも日本ダービー3着のミネマサに敗れた。しかし、クラシック三冠最終戦・菊花賞への前哨戦として臨んだ神戸盃では、64kgの斤量を負いながらも逃げ切りでの勝利を挙げ、同23日に菊花賞を迎えた。当日はミネマサが1番人気となったが、レースではダイナナホウシユウが後続を大きく離しての逃げからそのままゴールまで押し切り、ミネマサに6馬身差をつけてクラシック二冠を制した。この競走で4着となったタカオーとは、これが最後の対戦となった。 年末にはオープン競走を制し、当年の出走を終える。当年啓衆社がはじめた中央競馬の年度表彰において、ダイナナホウシユウは最良4歳牡馬に選出された。また、ダイナナホウシユウとタカオーの活躍により、飯原農場は生産者成績で第1位となっている。
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3~4歳時
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脚が長くひょろっとして見栄えのしない馬体で、入厩後もダート調教での動きが悪かったため、やはり関係者の期待は高くなかった。しかし9月19日の阪神の芝1200mでデビューするや、14頭立ての7番人気ながら、厩舎の準主戦であった崎山博樹を鞍上に8馬身差で圧勝。続く萩特別(400万下)2着、りんどう特別(400万下)1着、3歳ステークス3着とまずまずの成績で終えた。 4歳になった1983年はクラシックを見据えて挑んだ。初戦に選んだ2月の京都の4歳ステークスは13頭立ての殿負けを喫して、心配されるが、続く3月19日の春蘭賞(800万下)に勝ち皐月賞に駒を進めた。皐月賞は7番人気で果敢に先行したが、苦手の不良馬場に脚をとられてミスターシービーの11着に敗退。次走は東京の馬場に慣れる目的もあってNHK杯に出走し、9番人気の低人気であったが、大外枠ながら強い勝ち方をして重賞初制覇。そして日本ダービーでは3番人気に支持されるが、またミスターシービーの6着に敗れた。ダービー後すぐに休養には入らず6月の中京4歳特別に出走し、皐月賞では殿負けを喫した後のマイル王・ニホンピロウイナーの2着で春を終えた。 夏を越した秋にようやく本格化し、初戦の神戸新聞杯こそスズカコバンとは僅差の2着に敗れたが、厩舎の主戦である西浦勝一に乗り替わった京都新聞杯は、逃げるリードホーユーを直線で捕まえると6馬身差の圧勝で、しかもミスターシービーを4着に沈めた。いよいよ本格化と期待され本番の菊花賞では2番人気に支持された。果敢に先行したものの、距離不適だったのは否めず、直線で垂れて21頭立ての20着と惨敗を喫した。ちなみにこのレースはミスターシービーが勝ってシンザン以来19年ぶりの三冠馬を達成している。カツラギエースのデビューから神戸新聞杯まで主戦であった崎山は同年の調教師試験に合格し、1984年2月で引退して調教師に転向した。
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3・4歳時
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年明けはジュニアカップから始動。デビュー以来3戦連続1番人気となるも勝ちきれず2着。3月にはGIIスプリングステークスに鞍上に田中勝春で挑戦するも16着に敗れた。その後、鞍上を再び吉田豊に戻し条件戦を走るも、なかなか勝利をあげることができなかった。 10月、デビュー戦以来となる東京競馬場で3歳500万下のレースで快勝し、続く昇級戦でも2着となったが、その後は4戦連続の1番人気に推されたが勝利を挙げることができなかったため、陣営は初めてダート競走に出走させることとなる。 前走から鞍上の内田博幸とともに初ダートとなったレースでは、好位からの競馬で2着に4馬身をつける圧勝、福島で猪苗代特別も快勝した。夏には札幌遠征し昇級戦の報知杯大雪ハンデキャップ、格上挑戦となったしらかばステークスで続けて鞍上が替わる中、2着に入っている。鞍上が内田博幸に戻ったながつきステークスで勝利を挙げ、ダート転向後一度も連対を外すことなくオープン入りを果たした。11月のトパーズステークスでは3番人気に推されたが、7着に終わった。鞍上を再び吉田豊に戻して臨んだ続く師走ステークスではクリールパッションの2着と好走した。
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