開発概要
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TS010は1991年スポーツカー世界選手権(SWC)への実戦投入を目指したものであり、開発プロジェクトは1989年にスタートした。車体の設計および風洞実験、シャシの製作はTRDと童夢、エンジン開発はトヨタ東富士研究所が担当した。 初期開発段階において、エンジン開発チームは、重心高を徹底的に下げるために、アンダーフロアがフラットボトムであることを前提に開発を行っていた。それに対しシャシ開発チームは、高ダウンフォースを発生させるために従来のグループCマシン同様のウイングカー構造を持ったマシンを開発したかった。しかし、開発チーム間の異なるマシン構想によって、1990年初頭に完成した車体は、先行開発されていたエンジンが搭載できるだけとなり、結果的にアンダーフロアの整流などは考慮されず、重心も高いマシンが完成してしまった。この時の車体デザインは最終的にレースに登場したTS010の姿とは似つかない、旧来のトヨタ・88C-Vにまで遡るグループCマシンのイメージを引きずったようなものであった。 1990年2月にモータースポーツ部長に着任した齋藤治彦は、この開発状況を収拾するため、1990年5月の世界スポーツプロトタイプカー選手権 (WSPC) シルバーストン戦を視察中に偶然知り合ったトニー・サウスゲートにTS010開発のアドバイザー就任を依頼し、同時にスポーツカー世界選手権 (SWC) への参戦を1年遅らせ1992年からとすることで、エンジン、シャシ共に一から再設計させた。再設計されたシャシは90年夏に行われた風洞実験において、揚抗比の数値が、それまでのターボエンジン搭載のグループCカーがどうしても届かなかった4を超え、5.8に達したといい、ドラッグを抑えながら多くのダウンフォースを獲得できる目途がたった。一方、エンジンはシャシよりも先に完成し、91年シーズン初頭からトヨタ・89C-Vをテストベッドとして実走テストが開始された。 こうして1991年夏にTS010は完成し、同年8月のシェイクダウン後はデビューに向けてテストが重ねられた。またタイヤについては、従来から馴染みの深かったブリヂストンに替えて、「世界中のサーキットで実績を積んでいる」という観点から、グッドイヤーがチョイスされた。 このように従来のグループCマシンからの脱却を目指して開発されたTS010だが、同時期に登場したジャガー・XJR-14が、コンパクトなコスワースV8エンジンを搭載し、ラジエーターを車体側面配置にすることでヨーモーメントを低減、車体全てを軽量コンパクトに設計したのに対し、TS010は従来のグループCマシン同様、ラジエーターがフロント配置になっている等、車両パッケージは少々古いものであった。 また、XJR-14は、スプリントレースを主眼においたのに対し、TS010は耐久レースも考慮した事から、ドアは従来のグループCマシン同様に乗降性に優れたコンベンショナルなガルウィングドアとし、後輪部分にジャガー・XJR-12等と同様のスパッツを採用している。 このように、ややコンサバティブに設計されたTS010は、1991年8月に初めてメディアに公開された際、「細部の造形が何とも荒いし、デザインセンスも素人っぽい」と評論家にエクステリアデザインを酷評されたものの、車両としての完成度は当初からそれなりに高く、「トヨタ製グループCマシンの集大成」と言われている。 だが、92年SWCで好敵手となったプジョー・905は、シーズン中にEVO2を投入する等、常に空力性能を向上させ、さらに予選用エンジンを用意したのに対して、TS010は特に目立った改良は行われなかったため、次第に速さの面で劣勢となっていく。結果として92年SWCにおいて、TS010は第1戦モンツァを制したものの、残りのシーズンでは全てプジョーの後塵を拝する結果となってしまった。
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開発・概要
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1935年(昭和10年)、海軍の九試単座戦闘機(試作機、のちの九六式艦上戦闘機)の成功に刺激された陸軍は、海軍の了解のもとに、九試単戦を陸軍用に改修させた三菱重工業のキ18を審査した。しかし、キ18はエンジンの信頼性不足などを理由に制式採用には至らず、とりあえず川崎航空機のキ10が九五式戦闘機として制式採用された。しかし旧態依然たる複葉機である九五戦では主力戦闘機としての任に耐えないため、それに代わる機体として1936年(昭和11年)4月、低翼単葉戦闘機の競争試作を中島・三菱・川崎の3社に指示した。 これを受けて中島のキ27、川崎のキ28、三菱のキ33(九六艦戦の改造機)の競争となったが、先のキ18の不採用にしこりが残る三菱は試作機の提出はしたものの熱意を示さなかった。このため1937年(昭和12年)2月から始まった審査では、水冷エンジンで信頼性に不安のあるキ28を抑えて本機が選定された。この間、盧溝橋事件が発生したため審査を急ぎ、9月に終了、1937年(昭和12年、皇紀2597年)に九七式戦闘機として制式採用された。 採用当時の九七戦は、最大速度・上昇力でユンカース Jumo 210エンジンを搭載するドイツのメッサーシュミット Bf 109 B/C/D(B型は1936年11月に初飛行したBf 109の最初期量産型、D型まで同じJumo 210系列エンジンを搭載し1937年および1938年当時の主力)と遜色なく、かつ旋回性能ではこれを凌駕していた高性能機であった。しかし同時期の欧州では九七戦と異なり、設計面で将来性のあるBf 109(1938年12月には高出力のダイムラー・ベンツ DB 601に換装し高性能化されたE型が登場、さらにのちのG型ではDB 605に再度換装し敗戦まで主力)、スーパーマリン スピットファイア、ホーカー ハリケーンなどが完成しており、九七戦自体に限界を感じていた陸軍は高速重武装の重単座戦闘機志向を強めていくことになる。 陸軍航空本部は(九七戦開発中に考案された)昭和12年度陸軍航空兵器研究方針に則って機関銃搭載型・機関砲搭載型の2種の単座戦闘機開発を模索し、九七戦が採用された1937年12月に中島に対し一社特命でキ43の試作内示を、翌1938年(昭和13年)にはキ44の研究内示を行っている。昭和13年度陸軍航空兵器研究方針には新たに「軽単座戦闘機」・「重単座戦闘機」の区分が登場、「軽戦(軽単座戦闘機)」は格闘戦性能を重視し機関銃を装備し、「重戦(重単座戦闘機)」は速度を重視し機関砲を装備するものと定義され、当時開発中であったキ43は「軽戦」にキ44は「重戦」となった(両機はのちに前者が一式戦闘機「隼」、後者が二式戦闘機「鍾馗」となる)。区分が明文化された昭和15年度陸軍航空兵器研究方針において、「重戦」は高速重武装で航続距離や防弾装備にも優れ対戦闘機対爆撃機戦に用いる万能機たる本命機となり、「軽戦」は格闘戦を重視し主に対戦闘機戦に用いる性能装備面で妥協した補助戦闘機的ものとなっている。
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