追跡と捕獲(1861年8月-11月)
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「トレント号事件」の記事における「追跡と捕獲(1861年8月-11月)」の解説
これら外交官の出発意図は秘密ではなく、アメリカ合衆国政府は日々彼等の動向について情報を受け取っていた。10月1日までに、スライデルとメイソンはチャールストンに居た。当初の計画では快速蒸気船のCSSナシュビルで封鎖線を突破し、直接イギリスに向かうつもりだった。しかし、チャールストン港に入る海峡は5隻の北軍艦船に護られ、ナシュビルの喫水が深かったので、海峡をすり抜けるのが難しかった。夜間の脱出も検討されたが、潮と夜間の強風のために決行できなかった。メキシコを陸路辿り、マタモロスから出港する案も検討されたが、これでは数か月遅延することになり、受け容れられなかった。 代案として蒸気船のゴードンが提案された。ゴードンであれば喫水も浅いので裏ルートを抜けることができ、速力も12ノット以上が出せるので、北軍の追跡を振り切ることが可能だった。ゴードンアメリカ連合国政府が62,000ドルで買い上げるか、10,000ドルでチャーターする案が出された。アメリカ連合国財務省はこの金が出せなかったが、地元綿花ブローカーのジョージ・トレンホルムが帰りの航海で荷物室の半分を使用することと引き換えに10,000ドルを払った。ゴードンはセオドラと改名され、10月12日午前1時にチャールストン港を出港し、海上封鎖を行う北軍艦船もうまくすり抜けた。10月14日、バハマ諸島のナッソーに到着したが、カリブ海からイギリスに向かうイギリス船舶にとって主要な出発点であるデンマーク領西インド諸島のセントトマスに向かうイギリスの蒸気船に接続できなかった。しかし、イギリスの郵便船がスペイン領キューバにいる可能性があることが分かり、南西のキューバに向かった。セオドラは10月15日にキューバの海岸沖に現れたが、その石炭室はほとんど空だった。接近してきたスペインの艦船がセオドラを出迎えた。スライデルとジョージ・ユースティス・ジュニアが乗船すると、イギリスの郵便船は確かにハバナ港のドックに居たが、出港したばかりであり、次の郵便船である外輪蒸気船RMSトレントが到着するのは3週間先であることを告げられた。セオドラは10月16日にカルデナスのドックに入り、メイソンとスライデルは下船した。この2人の外交官はカルデナスに留まり、その後に陸路ハバナに行って、次のイギリス郵便船に乗船することに決めた。 一方、アメリカ合衆国政府にはメイソンとスライデルがナシュビルに乗って脱出したという噂が届いていた。北軍の情報部はメイソンとスライデルがセオドラでチャールストンを離れたことを即座に掴んでいなかった。海軍長官のギデオン・ウェルズはメイソンとスライデルがチャールストンを脱出したという噂に反応して、サミュエル・F・デュポン提督に快速艦船を2隻イギリスに向かわせ、ナシュビルを拘束するよう命じた。10月15日、ジョン・B・マーチャンドの指揮する北軍の側輪蒸気船USSジェイムズ・アジャーが、必要ならばイギリス海峡までナシュビルを追跡するという命令を持って、ヨーロッパに向かった。ジェイムズ・アジャーは11月初旬にイギリスに到着し、サウサンプトン港のドックに入った。イギリス政府は、アメリカ合衆国が外交官を捕まえようとしていることに気づき、彼等がナシュビルに乗船していると思いこんでもいた。パーマストンは、ナシュビルが寄港すると予測される所の周辺3マイルをイギリス海軍の艦船に偵察させ、捕獲がイギリスの領海内で起こらないようにさせた。ジェイムズ・アジャーがナシュビルを追ってイギリス領海に入ったとしても、こうしておれば外交的な危機を避けることができると考えられた。ナシュビルが11月21日に到着すると、使節団が乗船していなかったので、イギリスは驚かされた。 北軍のチャールズ・ウィルクス中佐が指揮する蒸気フリゲート艦USSサンジャシントが10月13日にセントトマスに到着していた。サンジャシントは1か月間近くアフリカ海岸沖を巡航した後、サウスカロライナ州ポートロイヤル攻撃の準備のために、アメリカ海軍に合流する命令を受けて西に向かっていた。しかしウィルクスはセントトマスで、アメリカ連合国のCSSサムターが7月にキューバのシエンフエーゴス近くでアメリカの商船3隻を捕獲したことを知った。サムターがそこに留まっている可能性は薄かったが、ウィルクスはそこに向かった。ウィルクスはシエンフエーゴスの新聞で、メイソンとスライデルが11月7日にイギリスの郵便船トレントでハバナを離れ、まずセントトマスに、続いてイギリスに向かう予定であることを知った。ウィルクスは「キューバと浅いグランドバハマ・バンクの間にある唯一水深の深い航路、バハマ海峡」をトレントが使う必要があることを認識した。ウィルクスは副指揮官であるD・M・フェアファックス少佐と法的に可能な選択肢を検討した後に、トレントの航行を妨害する作戦を立て、この問題に関する法律書も精査した。ウィルクスは、メイソンとスライデルがアメリカ合衆国の船舶によって捕獲する対象となりうる「戦時禁制」となるという考え方を採用した。 この攻撃的な決断は指揮官としてのウィルクスの典型的なスタイルだった。ウィルクスは一方で「傑出した探検家、著作家および海軍士官」として認められていた。しかし他方では「頑固で、熱心過ぎ、衝動的であり、時には命令に従わない士官であるという評判もあった。財務官のジョージ・ハリントンはスワードに「彼(ウィルクス)は我々に問題をもたらす。彼は過剰なまでに自負心が強く、また判断には欠陥がある。大きな探査任務を指揮した時は、部下の士官のほとんど全員を軍法会議に掛けた。彼だけが正しく、他の者は全て間違いとなる」と警告していた。 トレントは予定通り11月7日に出港し、メイソン、スライデルとその秘書官達、およびスライデルの妻子も乗船していた。ウィルクスがまさに予測したように、トレントはサンジャシントが待ち受けているバハマ海峡を通過した。11月8日の正午頃、サンジャシントの見張りがユニオンジャックを掲げたトレントを視認した。サンジャシントはトレントの船首越しに1発の砲弾を放ったが、トレントのジェイムズ・モワール船長はそれを無視した。サンジャシントの前側旋回砲が放った砲弾がトレントの前部に着弾した。この2発目に続いてトレントは停船した。フェアファックス少佐が後甲板に呼ばれ、ウィルクスから次のような文書の指示を受け取った。 あの船(トレント)に乗船し、蒸気船の書類、すなわちハバナの出港許可書と乗客乗員の名簿を求めること。メイソン氏、スライデル氏、ユースティス氏およびマクファーランド氏が乗船している場合は、彼等を拘束し、この船に送りつけたうえで、あの船を戦利品として捕獲すること。 … 彼等は乗船しているに違いない。 彼等の所有するトランク、ケース、小包および袋の類は全て押収し、本船に送り届けること。捕虜の所有になる、あるいはかの蒸気船に乗り込む者の所有になる報告書の類も押収し、検査し、必要ならば保持すること。 フェアファックスはカッターでトレントに漕ぎ寄せ乗船した。拳銃とカトラス(短剣)で武装した20人の部隊が2隻のカッターでトレントに横付けした。フェアファックスは、ウィルクスが国際的な事件を起こそうとしており、その範囲を拡大しようとは望んでいないことを確信していたので、その武装護衛にはカッターの中に留まるよう命令した。フェアファックスは乗船すると、怒り心頭に発するモワール船長の所に連れて行かれ、そこで「メイソン氏とスライデル氏および彼等の秘書官を逮捕し、捕虜として近くのアメリカ合衆国の戦闘艦に連行する」命令を受けていると伝えた。乗員と乗客がフェアファックスを脅したので、トレントの船腹にある2隻のカッターの武装兵はこの脅しに反応して、船腹を上り、フェアファックスを護った。モワール船長はフェアファックスの要求した乗客名簿提出を断ったが、メイソンとスライデルが前に出てきて、自分達であることを確認した。モワール船長は船内の戦時禁制品捜索も拒否した。フェアファックスはこの問題を押すことはできなかった。それは船を戦利品として捕獲する必要があったからであり、それはほぼ間違いなく戦争行為だった。メイソンとスライデルは自発的にフェアファックスと同行することを正式に拒否したが、フェアファックスの部下がカッターに誘導したときには抵抗しなかった。 ウィルクスは後に、トレントは「高度に重要な積み荷を運んでおり、アメリカ合衆国にとっては有害な指示を与えられていた」と考えたと主張することになった。フェアファックスが船内を捜索できなかったことに加えて、外交官が携行する手荷物に文書が見つからなかったことには別の理由があった。メイソンの娘が後の1906年に記したところに拠れば、トレントの乗客だったイギリス海軍のウィリアムズ中佐がアメリカ連合国の郵袋を確保しており、後にロンドンで代表団に戻されたということである。このことはヴィクトリア女王による中立宣言に対する明らかな違反だった。 国際法では、「戦時禁制品」が船上で発見されたとき、その船は最も近い捕獲審判所に裁定を求めることとされている。これがウィルクスの当初の考えだったが、フェアファックスは、サンジャシントからトレントに乗員を移せばサンジャシントが危険なくらい手薄になり、またトレントの他の乗客や郵便の受取人にとっては甚だしく不都合になるので、ウィルクスに反対した。この場の責任者だったウィルクスはフェアファックスの主張に合意し、アメリカ連合国の2人の使節およびその秘書官達を除いて、トレントがセントトマスまで進むことを認めた。 サンジャシントは11月15日にバージニア州ハンプトン・ローズに到着し、ウィルクスはワシントンに使節捕獲の報せを打電した。その後ボストンに行って、アメリカ連合国の捕虜を収容する施設であるウォーレン砦に捕虜を届けるよう命令された。
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