農夫および人民主義の興隆
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「アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918)」の記事における「農夫および人民主義の興隆」の解説
19世紀アメリカ合衆国の農業はその著しい発展があったにも拘わらず、農夫たちは繰り返される困難な時期を経験していた。幾つかの基本的要素として、土地の疲弊、自然災害、自給自足率の減退、および連邦政府による適切な法的保護と援助の欠如があった。しかし、最も大きな要素は生産過剰だった。 単位面積あたり収量を大きく増加させた農業機械の改良と共に、鉄道の恩恵と平原インディアンを居留地に押し込むことで西部の開拓用地が開かれ、耕作面積は19世紀後半で飛躍的に拡大した。カナダ、アルゼンチンおよびオーストラリアのような大国で同様な農業用地の拡大が進み、過剰生産とアメリカ産品の多くが売られていた国際市場での低価格という問題を生んだ。 開拓者たちが西部に進めば進むほど、その産品を市場に送り出すためには独占的鉄道への依存率が上がった。同時に農夫たちは工業生産品に高い代金を払わされた。これは東部の工業資本家に支えられた連邦政府の保護関税が長く維持されたためだった。時の経過とともに中西部や西部の農夫はその土地の抵当権を持っている銀行に大きな借金を背負うようになった。 南部ではアメリカ連合国の没落で農業習慣にも大きな変化が起こった。最も重要なことは小作農が種や生活必需品と引き換えに土地所有者に収穫品の半分を渡すというシェアクロッピングだった。推計で南部のアフリカ系アメリカ人農夫の80%、および白人農夫の40%は南北戦争後のこの衰弱していく仕組みの下で生活した。シェアクロッパーの大半は借金の循環に閉じ込められ、そこから唯一逃げ出す手段は収量を上げることだった。このことは綿花やタバコの生産過剰に繋がり(販売価格の低下と収入の減少に繋がった)、土地は疲弊し、土地所有者も小作人も貧乏になる者が多かった。 一般的な農業問題に対処しようとした最初の組織的な動きが農民共済組合だった。1867年にアメリカ合衆国農務省職員によって始められたこの組合は、当初大半の農家が経験していた孤立化に対抗する社会運動になった。女性の参加が積極的に奨励された。1873年恐慌で加速された組合運動は2万の支部と150万人の組合員数を誇るようになった。 農民共済組合はその大半は結局失敗したものの、独自の市場、店舗、加工工場および協同組合を設立した。また1870年代には幾らかの政治的成功も収めた。幾つかの州は農民共済組合法を成立させ、鉄道と倉庫の料金を制限した。 1880年までに農民共済組合運動は衰退し始め農夫同盟に置き換えられた。1890年までにこの同盟はニューヨーク州からカリフォルニア州まで約150万人の会員を集めた。これと並行してアフリカ系アメリカ人の組織である有色人農夫全国同盟は100万人以上の会員数になった。 農夫同盟はその開始時点から精巧な経済プログラムを持った政治的組織だった。初期の政治綱領に拠れば、その目的は「アメリカの農夫を階級的立法や忍び寄る集中資本から保護するために団結させる」ことだった。そのプログラムは鉄道を完全に国有化できなければ規制し、借金を返し易くするためにインフレを助長し、関税を下げ、政府が所有する倉庫や低料金の賃貸施設を設立することも要求した。これらはオカラ要求と呼ばれた。 1880年代後半、一連の旱魃が西部を襲った。4年間でカンザス州の西部は人口の半分を失った。事態をさらに悪くしたのは1890年のマッキンリー関税であり、これまでになく高い関税だった。これが農機具の価格を上げてアメリカの農夫にとって有害となった。 1890年までに、農民の困窮の程度はこれにまでなく高くなった。著名な人民主義(Populism)著作家で扇動者のメアリー・エリザベス・リース(英語版)は農夫たちに「トウモロコシの収量を下げ大騒ぎする」必要性を説いた。農夫同盟は南部では同調的な民主党と、西部では小さな第3の政党と協力し、政治的な力を求めた。これらの要素から人民の党 (Populists)と呼ばれる新しい政党が創られた。1892年の選挙ではこの新党と南部および西部の州政府の支配勢力との連衡が生じ、アメリカ合衆国議会の上院と下院に少なからぬ議員を送り出した。1892年に農夫同盟の最初の大会がネブラスカ州オマハで開かれ、集まった農夫、労働者および社会改革組織者の代表たちは工業と商業のトラストで金銭ずくになって絶望的に腐敗したと見るアメリカ合衆国の政治に一石を投じることを決めた。 人民の党の実際的な綱領は銀の無制限鋳造を含み、土地、輸送および財務の問題に焦点を当てた。1892年の選挙では人民の党が西部と南部でかなりの力を見せ、その大統領候補者は100万票以上を獲得した。しかし間もなく全ての問題に影を投げたのは金本位制を主張するものに対して銀本位を主張する通貨問題だった。西部と南部の農夫代表者は銀の無制限鋳造に復帰することを要求した。その問題が通貨量の不足から来ていると確信した農夫同盟は、通貨量を増やすことで間接的に農業生産者価格を上げ、工場労働者の賃金も上げ、インフレになれば借金が払いやすくなると主張した。 一方保守派や金融筋は、そのような政策では惨事になると考え、インフレが一度始まれば止められなくなると主張した。当時の最も重要な金融商品である鉄道債は金で支払うことができた。鉄道の運賃や輸送費が銀貨で半値になれば、鉄道は数週間で破産し、数十万人が失職し、工業経済を破壊する。金本位制のみが経済の安定を支えると主張した。 1893年の金融恐慌はこの議論の緊張関係を高めた。南部と中西部で銀行の破綻が続いた。失業者が溢れ、農業生産物価格は急落した。この危機にクリーブランド大統領の解決力の無さが合わさり、民主党が分解寸前になった。 銀本位と自由貿易を支持した民主党は1896年の大統領選挙が近付いた時に人民の党運動の残党を吸収した。その年の民主党大会ではアメリカ合衆国の政治史の中でも最も有名な演説の一つが行われた。ネブラスカ州出身の若き銀本位制提唱者、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンは「金の十字架に人類を磔にする」べきではないと訴え、民主党の候補者指名を勝ち取った。人民の党の残党もブライアンの動きの中で発言力を維持しようと期待してブライアンを支持した。ブライアンはカリフォルニア州とオレゴン州を除く西部と南部の全州を制したにも拘わらず、「フルコースの食事」(A Full Dinner Pail)を選挙スローガンにした共和党候補者ウィリアム・マッキンリーに敗れた。マッキンリーは人口が多く工業化の進んだ北部と東部を地盤にしていた。 翌年、金融事情は企業が自信を取り戻したこともあって改善を始めた。大半の商取引が金の袋ではなく銀行券で取り扱われることを認識していなかった銀本位制主張者は、新しい景気がユーコンでの金発見によるものと考えた。1898年、米西戦争が国民の注意を引き付け、さらに人民の党の主張からは遠ざかった。しかしこの運動が潰えたとしてもその概念は残った。人民の党が一旦この概念を支持すると、アメリカの政治家の大半が拒否する汚点になった。わずか数年後に、この汚点が忘れられた頃、アメリカ合衆国上院の直接選挙のような人民の党の主張する改革が現実になった。
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