農夫および人民主義の興隆とは? わかりやすく解説

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農夫および人民主義の興隆

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/11 06:19 UTC 版)

アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918)」の記事における「農夫および人民主義の興隆」の解説

19世紀アメリカ合衆国農業はその著し発展があったにも拘わらず農夫たちは繰り返される困難な時期経験していた。幾つかの基本的要素として、土地疲弊自然災害自給自足率の減退、および連邦政府による適切な法的保護援助欠如があった。しかし、最も大きな要素生産過剰だった。 単位面積あたり収量大きく増加させた農業機械改良と共に鉄道恩恵平原インディアン居留地押し込むことで西部開拓用地開かれ耕作面積19世紀後半飛躍的に拡大したカナダアルゼンチンおよびオーストラリアのような大国同様な農業用地の拡大進み過剰生産アメリカ産品多く売られていた国際市場での低価格という問題生んだ開拓者たち西部進めば進むほど、その産品市場送り出すためには独占的鉄道への依存率が上がった同時に農夫たちは工業生産品に高い代金を払わされた。これは東部工業資本家支えられ連邦政府保護関税長く維持されたためだった時の経過とともに中西部西部農夫はその土地抵当権持っている銀行大きな借金背負ようになった南部ではアメリカ連合国没落農業習慣にも大きな変化起こった。最も重要なことは小作農が種や生活必需品引き換え土地所有者収穫品の半分を渡すというシェアクロッピングだった。推計南部アフリカ系アメリカ人農夫80%、および白人農夫40%は南北戦争後のこの衰弱していく仕組みの下で生活した。シェアクロッパーの大半借金循環閉じ込められ、そこから唯一逃げ出す手段収量上げることだった。このことは綿花タバコ生産過剰繋がり販売価格低下収入減少繋がった)、土地疲弊し土地所有者小作人も貧乏になる者が多かった一般的な農業問題対処しようとした最初組織的な動き農民共済組合だった。1867年アメリカ合衆国農務省職員によって始められたこの組合は、当初大半農家経験していた孤立化対抗する社会運動になった女性の参加積極的に奨励された。1873年恐慌加速され組合運動は2支部150万人組合員数を誇るようになった農民共済組合はその大半結局失敗したものの、独自の市場店舗加工工場および協同組合設立した。また1870年代には幾らか政治的成功収めた幾つかの州は農民共済組合法を成立させ、鉄道倉庫料金制限した1880年までに農民共済組合運動衰退し始め農夫同盟置き換えられた。1890年までにこの同盟ニューヨーク州からカリフォルニア州まで約150万人会員集めた。これと並行してアフリカ系アメリカ人組織である有色人農夫全国同盟100万人以上の会員数になった農夫同盟はその開始時点から精巧な経済プログラム持った政治的組織だった。初期政治綱領拠れば、その目的は「アメリカ農夫階級的立法忍び寄る集中資本から保護するために団結させる」ことだった。そのプログラム鉄道を完全に国有化できなければ規制し借金返し易くするためにインフレ助長し関税下げ政府所有する倉庫や低料金賃貸施設設立することも要求した。これらはオカラ要求呼ばれた1880年代後半一連の旱魃西部襲った4年間でカンザス州西部人口半分失った事態をさらに悪くしたのは1890年マッキンリー関税であり、これまでになく高い関税だった。これが農機具価格上げてアメリカ農夫にとって有害となった1890年までに、農民困窮程度はこれにまでなく高くなった。著名な人民主義(Populism)著作家扇動者のメアリー・エリザベス・リース(英語版)は農夫たちに「トウモロコシ収量下げ大騒ぎする必要性説いた農夫同盟南部では同調的な民主党と、西部では小さな第3政党協力し政治的な力を求めた。これらの要素から人民の党 (Populists)と呼ばれる新し政党が創られた。1892年選挙ではこの新党南部および西部州政府の支配勢力との連衡生じアメリカ合衆国議会の上院と下院少なからぬ議員送り出した1892年農夫同盟最初大会ネブラスカ州オマハ開かれ集まった農夫労働者および社会改革組織者の代表たちは工業と商業トラスト金銭ずくになって絶望的に腐敗したと見るアメリカ合衆国の政治一石を投じることを決めた人民の党の実際的な綱領は銀の無制限鋳造含み土地輸送および財務問題焦点当てた1892年選挙では人民の党が西部南部かなりの力を見せ、その大統領候補者は100万票以上を獲得した。しかし間もなく全ての問題に影を投げたのは金本位制主張するものに対して本位主張する通貨問題だった。西部南部農夫代表者は銀の無制限鋳造復帰することを要求した。その問題通貨量の不足から来ていると確信した農夫同盟は、通貨量を増やすことで間接的に農業生産価格上げ工場労働者賃金上げインフレになれば借金払いやすくなる主張した一方保守派金融筋は、そのような政策では惨事になると考えインフレ一度始まれば止められなくなると主張した当時の最も重要な金融商品である鉄道債は金で支払うことができた。鉄道運賃輸送費が銀貨半値になれば、鉄道は数週間破産し数十万人失職し工業経済破壊する金本位制のみが経済安定支えると主張した1893年金融恐慌はこの議論緊張関係を高めた南部中西部銀行破綻続いた失業者溢れ農業生産物価格は急落した。この危機クリーブランド大統領解決力の無さが合わさり、民主党分解寸前になった。 銀本位自由貿易支持した民主党1896年大統領選挙近付いた時に人民の党運動の残党吸収した。その年の民主党大会ではアメリカ合衆国の政治史の中でも最も有名な演説一つが行われた。ネブラスカ州出身若き銀本位制提唱者ウィリアム・ジェニングス・ブライアンは「金の十字架人類を磔にする」べきではないと訴え民主党候補者指名勝ち取った人民の党の残党ブライアン動きの中で発言力維持しよう期待してブライアン支持したブライアンカリフォルニア州オレゴン州を除く西部南部全州制したにも拘わらず、「フルコース食事」(A Full Dinner Pail)を選挙スローガンにした共和党候補ウィリアム・マッキンリー敗れたマッキンリー人口多く工業化進んだ北部東部地盤にしていた。 翌年金融事情企業自信取り戻したこともあって改善始めた大半商取引が金の袋ではなく銀行券取り扱われることを認識していなかった銀本位制主張者は、新し景気ユーコンでの金発見よるもの考えた1898年米西戦争国民注意を引き付け、さらに人民の党の主張からは遠ざかった。しかしこの運動潰えたとしてもその概念残った人民の党が一旦この概念支持すると、アメリカの政治家の大半拒否する汚点になった。わずか数年後に、この汚点忘れられた頃、アメリカ合衆国上院直接選挙のような人民の党の主張する改革現実になった

※この「農夫および人民主義の興隆」の解説は、「アメリカ合衆国の歴史 (1865-1918)」の解説の一部です。
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