第23師団壊滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 15:12 UTC 版)
残された日本軍最後の陣地はバルシャガル高地のみとなり、攻勢移転で多くの兵力を失っていた日本軍はこの高地を、第一次ノモンハン事件からこれまで最前線で戦い抜いた山県大佐率いる歩兵第64連隊と第7師団歩兵第26連隊の1個大隊で守っていた。またその後方では、7月25日からの砲撃戦でソ連軍に巨弾を浴びせた砲兵団主力が支援する形で配置されていた。対するソ連軍は高地全周を、狙撃兵第601、第602、第603、第127、第293、第149、第24の7個連隊と、第5機関銃狙撃兵旅団、第9装甲車旅団で完全に包囲し、他の部隊は国境線まで進出し、日本軍の増援の進出を牽制した。 山県は兵力不足から、指揮下の4個大隊を単線式配備しかできず、後方に配置していたはずの重砲隊は、ソ連軍に包囲されたことにより最前線となってしまっていた。それで8月24日にソ連軍は日本軍陣地の攻撃を開始し、自分らの身を守る術がない重砲隊は、ソ連軍の戦車と歩兵に包囲された。各重砲隊はそれでも簡単に全滅することはなく28日まで、重砲の零分角射撃(直接照準・水平射撃)でソ連軍戦車隊と渡り合った、重砲の巨弾が戦車に命中すると砲塔が吹き飛んだという。野戦重砲第1連隊第2中隊長山崎昌来中尉は、敵の攻撃で負傷し顔面を血に染めながらも、部下を鼓舞して九六式十五糎榴弾砲の零分角射撃でソ連軍戦車の攻撃を何度も撃退。砲弾を撃ち尽くすと、砲の照準器を破壊しソ連軍戦車に最後の突撃をしようとしたところで、重砲の死角となる200 mまで近づいたソ連軍歩兵の狙撃を頭部に受け戦死した。その活躍により山崎はノモンハン事件で個人としては、関東軍による唯一の感状を授与されている。重砲連隊も次々と壊滅していた。ムーリン重砲兵連隊は連隊長の染谷中佐が8月26日に観測所で自決し全滅、野戦重砲第1連隊の三島連隊長は負傷し後送、野戦重砲第7連隊の鷹司信熙連隊長は8月27日に残った重砲が1門となったため、第64連隊に合流しようとしたが、既に敵の包囲下で果たせず、残った砲の保守のために残置させた29名以外を陣地から脱出させた。破壊を免れた3台の乗用車に鷹司と2人の副官と負傷者を乗せて、後方の砲兵団司令部への戦況報告と再起を図るため後退したが、後にこの行為は無断脱出と看做され、謹慎を命じられ、停戦後には停職処分と男爵礼遇の停止の処分を下されている。 8月27日にはバルシャガル高地の歩兵第64連隊も風前の灯火となっていたが、このまま第23師団が全滅してしまっては、国際的に日本の大きな不名誉になると考えた小松原は手持ちの残存兵をかき集めてバルシャガル高地を救援することとした。合計の兵力は歩兵第71・72連隊の生存者を含め1,440名であったが、数万の兵力でバルシャガル高地を包囲するソ連軍の包囲を突破し高地まで達するのは極めて困難と思われ、第6軍は救援を止めるよう勧告したが、小松原は勧告を無視し自ら救援隊の指揮をとることとし28日に出撃した。一方第64連隊の山県は師団からの知らせで28日に救援部隊が到着すると認識していたが、第6軍の勧告などで出撃が遅れたため28日には到着しなかった。事情を知らない山県は小松原救援隊は敵の妨害によりもうバルシャガル高地には到着できないと判断し、唯一砲兵隊で指揮官が健在だった野砲第13連隊の伊勢高秀大佐と協議し、主力に合流するため29日午前2時に高地の脱出を命じた。山県の命令で隷下の部隊は同時ではなく時間差を置いて後退しており、小松原直率の救援隊がバルシャガル高地に到着したときには既に山県と伊勢率いる主力は撤退済みであった。脱出した第64連隊主力はソ連軍に捕捉され、進退窮まった山県と伊勢は、ソ連軍の重囲下で軍旗を奉焼した後自決した。ソ連軍は狙撃兵第24連隊を第64連隊が撤退したバルシャガル高地に進攻させ、日本軍残存兵が籠る陣地を一つ一つしらみつぶしに殲滅していったが、残存の日本兵も陣地から出撃して夜襲をかけるなど最後まで激しく抵抗し、28日深夜には日本軍戦車4輌、装甲車4輌を撃破する戦功をあげていた第6装甲車旅団司令官ビクター.アレクシェビチアミネフが戦死している。ソ連軍が日本軍の激しい抵抗を制し完全にバルシャガル高地を占領したのは31日となった。 山県らと入れ替わりでバルシャガル高地の左翼陣地に到達した小松原救援隊であったが、そのまま引き返すことなく陣地を構築し防衛態勢をとった。辻はその状況を知ると8月30日に第6軍司令部にかけつけたが、そこで司令官の荻洲が辻に「辻君、僕は小松原が死んでくれることを希望しているんだがどうかね君」と話しかけられたため、辻は憤然として荻洲に「軍の統帥とは師団長を見殺しにすることですか」とどなり、その後に第6軍の参謀らに「誰か若い参謀が決死隊を連れて師団長を救出して来い」と命じたが、これまでの第6軍幕僚と小松原の感情的なしこりから誰も反応しなかったため、辻は「よしっ、君たちが行かないのなら、俺が行く」と立ち上がるとようやく高級参謀の浜田大佐が自分が行くと名乗り出た。しかし、敵の重囲下に小規模部隊を派遣しても損害が増えるばかりという結論に達し、救援隊の救援は出されず平文で軍による撤退命令を打電した。進退窮まっていた小松原救援隊は、30日夜に最後の突撃を行って玉砕することに決めて準備をしていたが、その時に第6軍から「突破帰還すべし」という撤退命令を受領したため、敵の重囲化の中を、軍刀を振りかざした小松原を先頭に400名の残存兵力で、5回も敵陣地を突撃で突破して、手榴弾で片足を吹き飛ばされた参謀長岡本徳三大佐(9月11日に病院で死亡)をはじめとする多数の負傷者を担ぎながら撤退に成功した。31日午後2時すぎに小松原は将軍廟の第6軍司令部に到着し「多くの部下を殺し誠に申し訳ありません。死ぬべきであるとは思いましたが、御命令に接しまして敵を突破して帰りました。この上は師団を再建し必ず汚名を雪ぎます」と荻洲に報告した。そのとき荻洲はウィスキーを飲んで赤ら顔となっており、その様子を見ていた辻は「偉い将軍(小松原)だ。ケタ違いだ、新軍司令官(荻洲)とは…」と感心している。 小松原は撤退に成功したが、第23師団の損耗率は最大で78%にも達し文字通り全滅した。8月だけの死傷数も8,500名に達した。一方力押ししたソ連軍の損害も大きく、ロシア国防省戦史研究所ワルターノフ大佐の報告では死傷者数11,205名と日本軍を上回っているが、前述の通りワルターノフ大佐の報告はその後のロシア人研究家たちの調査により過少と判明しており、実際はもっと大きな損害を被っていたと推定される。
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