第23師団の紛争地進出
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「ノモンハン事件」の記事における「第23師団の紛争地進出」の解説
激増する国境紛争に対応するため関東軍は戦力を増強することとし、関東軍への派遣が決定された1938年に新設されたばかりの第23師団を紛争地の防衛にあたらせることした。第23師団は日中戦争の拡大で師団増設の必要に迫られた日本軍が、通常編成である歩兵4個連隊(定数29,400人)から歩兵3個連隊(定数24,600人)に減少して編成した特設師団であり、慢性的な戦力不足から、通常編成の常備師団と比較すると、予備役招集兵や年長兵により編成され兵器も旧式なものが配備されていた。師団長にはソ連駐在武官やハルビン特務機関などを歴任し、ソ連通であった小松原道太郎中将が親補された。参謀長には騎兵が専門で小松原同様ソ連通であった大内孜大佐が任命されたが、大内は「この師団長のときに、戦いが起こらなければいいが」と懸念していたという。第23師団は新設師団であり兵士の練度に問題があったため、1938年7月21日に師団に満州派遣の出動命令が下された後は、ハルビン周辺にいったん集結し、付近の警備を担当するという名目で訓練を行った後に、11月から年末にかけて順次ハイラル付近に進出した。しかし極寒地のハイラルでは冬季にまともな訓練はできず、1939年1月から4月までは戦闘訓練よりは耐寒訓練に明け暮れて、ようやく本格的な戦闘訓練を開始した頃にノモンハン事件を迎えることとなった。 1939年初頭の第23師団は歩兵第64連隊、歩兵第71連隊、歩兵第72連隊、第23師団捜索隊(騎兵1個中隊と軽装甲車1個中隊)、野砲兵第13連隊、工兵第23連隊、輜重兵で編成されていた。将兵は14,000人、軽装甲車7輌、砲60門と戦力は師団定数を割り込むものであったが、アルグン川を境界とするソビエト、満州国境を起点とした、モンゴル、満州国境線全域の広大な地域の防衛を担当することとなった。
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